クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

欧州トップクラブへの移籍について

ワールドカップ最終予選の初戦、負けちゃったね(笑)。しかもホームで。
チームの出来や監督の戦術等に対する批判や文句は、きっとネット上で大噴出していることだろう。なので、ここでは触れない。皆にお任せします。

本日のトピックスは、「移籍について」である。
つい先日、ボローニャに在籍していた富安選手が、イングランド・プレミアリーグアーセナルに移籍することが決まった。

アーセナル。名門である。
ちょっと最近は不甲斐ないが、輝かしい伝統を誇り、イギリス国内のみならず世界中に多くのファンを持つロンドンのビッグクラブだ。

こうした欧州トップリーグの名門強豪チームに移籍してプレーするのは、選手にとって夢であり、憧れであり、究極の目標だろう。チームの一員になれば、この上ない名誉。その先には栄光が待っている。活躍すれば、名声も巨額なお金も手に入る。そうやって、世界中のプレーヤーが情熱を燃やし、日夜頑張っている。

日本人も、海外に挑戦する選手は、今やまったく珍しくなくなった。欧州のどこかに行くだけなら、むしろ普通の出来事になってきた。すごい時代になったもんだ。

だが・・・。
これが、各国リーグのトップエリートチーム、チャンピオンズリーグの常連強豪チームとなると、俄然話は別になってくる。とてつもなく高い壁。甘くないのである。
特に、日本人選手にとって。現実的な問題として。残念なことに。

まったくそこに辿り着けない、というわけではない。これまでにも何人もの選手が、周囲の驚きを伴いながら、そうしたチームと契約した。
問題はその後。彼らはそこで活躍出来たのか。その結果は一目瞭然だ。

R・マドリードに移籍した久保選手、リヴァプールに移籍した南野選手、PSVに移籍した堂安選手、FCポルトに移籍した中島選手、マンチェスター・シティーに移籍した板倉選手・・・。
過去においても、マンチェスターUtdに移籍した香川選手、アーセナルに移籍した稲本選手、ジャガー浅野選手、チェルシーに移籍した武藤選手、バイエルンに移籍した宇佐美選手・・・。
彼らは、レギュラーを勝ち取り、中心選手となって活躍したか??
ことごとく壁に跳ね返された。ほぼ壊滅と言っていい。

数少ない例外として、ドルトムント時代の香川選手と、インテル時代の長友選手は一時期輝いたが・・・それくらいだろう。(フェイエノールトの小野選手、セルティック中村俊輔選手、マルセイユの酒井選手も加えてあげたいが、所属クラブが欧州のトップエリートチームかどうかは若干微妙ではある。)

どうなんだろう。それって失敗を意味するのではないか。
彼らからすれば、「そんなことはない。学んだこともあるし、挑戦は意義があった」と否定するだろうが・・。

ステップアップは、選手にとってチャレンジであり、不可欠な情熱だ。そうした野心を失えば、選手として終わり。だから彼らは例え無謀と言われようと、上を目指す。
で、その挙げ句、ほぼ例外なく「ベンチ」という苦しい壁にぶつかる。
やがて、レンタル放出されたり、再び中堅チームに移籍したりして、活躍の場を模索するのだ。

なんつうか・・こんなことを言っては身も蓋もないし、失礼かもしれないが、本当にそこでレギュラーを勝ち取れる自信があって移籍を決断するのか? 諸君。

例えば、今やフランクフルトのレジェンドになりつつある長谷部選手のような道はダメなのか?
シュトゥットガルトでキャプテンを任せられ、替えのきかない地位を確立させつつある遠藤選手のような道はダメなのか?
ボローニャに留まり、ボローニャの絶対的な選手になるんじゃダメなのか、富安くん?
フランクフルトでほぼポジションを勝ち取った鎌田選手も、なんとなく虎視眈々と「次」を狙っている気配があるが・・・フランクフルトで活躍し続けるんじゃダメなのか?

プロの選手って、出て活躍してなんぼじゃないの?

もっとも移籍というのは、選手本人だけの問題じゃないからなあ。
安く買って高く売りたいクラブの思惑もあるしねえ。
難しいのう・・・。

2021/8/28 二期会 ルル

2021年8月28日   二期会   新宿文化センター
ベルク  ルル
指揮  マキシム・パスカル
演出  カロリーネ・グルーバー
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団
森谷真理(ルル)、増田弥生(ゲシュヴィッツ伯爵令嬢)、高野二郎(画家)、加耒徹(シェーン博士)、前川健生(アルヴァ)、山下浩司(シゴルヒ)、北川辰彦(猛獣使い、力業師)、中村蓉(ソロダンサー)   他


二期会会心の一撃。カンパニーの総力を束ね、充実度を極めた高水準の出来栄えだ。

私がこれまでに鑑賞した中で印象深かかった二期会公演として、2015年10月に上演されたR・シュトラウスの「ダナエの愛」が挙がる。
しかし、どちらかと言えば「なかなか上演されないレア作品を、よくぞやってくれた」という感謝の念が大きかった。純粋なる上演レベルの成果で、これほどの鮮やかな感動をもたらしてくれたのは、久しぶり。ていうか、もしかしたら初めてかもしれない。

これまでにも意欲的なプロダクションはあった。二期会は、他の劇場との共同制作やレンタルなどによって、世界的な演出家が創り上げたプロダクションを持ってくる機会を積極的に作っている。そのおかげで、創造性のある演出や舞台に接し、目を瞠ることはあった。
だが如何せん、歌手のレベルがそこに追い付かず、残念な舞台を「あーあ・・」と思いながら見つめることが何度もあった。私のブログの感想記事で、最初に演出について述べ、次に指揮者とオーケストラについて述べたら、「はい以上、おしまい」となることさえあった。ド素人ファンの戯言など取るに足らないが、歌手の団体である以上、その実力は正当に評価されたいというのは、偽らざる本音だと思う。

本公演に出演した歌手たちは、そうした過小評価に強烈な反撃パンチを見舞うほどの、颯爽たる活躍であった。

特に、主役ルルを歌い演じた森谷真理さん。手放しで絶賛させていただきたい。
至難な役であることは一目瞭然、誰もが知っている。単に歌うだけでなく、難解な音楽の完成度を追求し、なおかつ演出の要請に応え、女優並みの演技をする。舞台上で圧倒的な存在感を示しながら、観客の心にルルの生き様をストレートに突き刺す。これらをパーフェクトに務めることが、どれほど大変なことか。

シェーン博士を務めた加耒さんも、これが代役だったとは信じられないくらい見事だった。

日本人歌手を眺めていていつも思う「ワタシ、一生懸命演技してます」感も、ほとんど感じられなかった。きっと演出チームと話し合いを重ね、十分に研究し、稽古してきたからだろう。彼らは、体に染み付くくらいに歌と言葉と演技を合体させる努力を積み重ねたのだ。その成果は、際立つほどに現れていた。
もしかしたら、公演が一年延期になったことも、吉に繋がったのかもしれない。すべての出演者の方々の演技と歌唱の両面において、完全に熟成されていた。


演出について。
本公演のチラシやポスターに書かれていたキャッチフレーズ。
「魔性と呼ばれた私の真実の心--」
まさにこれがカギだった。
「ルルとは何者なのか?」
この答えが、演出家の深く鋭い探求によって、明快に導き出されていた。

ポイントは3つ。
男たちの視点の先にある女。それから、「ルル」というキャラクターを背負った女。そして、「ルル」の本当の姿。
これらの3つの像を表すために、演出家は歌手自身の他に、マネキン人形と分身の黙役ダンサーを配置。更に印象を増幅させるために映像も使用。こうした効果が融合して、真実が明かされるかのような筋の通った舞台が完成した。

「男たちの視点の先にある女」という解釈を全面に打ち出した演出版を、私は以前に見たことがある。ハンブルク歌劇場で観たペーター・コンヴィチュニー演出のプロダクションである。
グルーバーの演出は、更にもう一つ「ルル自身」という視点を加えたことで、舞台の深層が三次元的になっていた。主人公の内面に迫り、ルルの表面的な人格の歪みとは異なった、出自から生い立ちを経て心に蓄積されていった孤独感や寂しさまでを露わにして見せた。それらは目からウロコで、驚きであり、興味深く、そして画期的だった。

また、全体的なコンセプトだけでなく、場面やシーンに施した意図的な細かい仕掛けについても、よく練られ、上手く作られていた。
例えば、可動式の4つの舞台装置の2台にまず「L」「U」の文字を浮かび上がらせ、残りの2台にも「L」「U」と続けて「ルル」と読ませるのかなと想像させておき、「S」「T」⇒「LUST」⇒「情欲」を暗示させて見せたり、あるいは色欲の象徴であるマネキンを映像上で次から次へと増殖させて、卑猥な下心を持つ男たちの蔓延りを表現したり、そうしたマネキンの中に一つだけ聖母マリアの像を紛れ込ませて、女性に清廉さや純真さを求める男たちの願望(それは同時にルルの持つ一面でもある)を表したり・・・。

二幕版にし、ラストを通常のルル刺殺にしなかったことで、ルルの精神の解放と、未来に託された女性の解放の両方を暗示させることとなった結末も秀逸。観客は自らの想像を働かせ、考えるためのメッセージを受け取ったのだ。これこそが我々が劇場に足を運ぶ意義なのである。


マキシム・パスカル指揮東京フィルの演奏も、鮮烈だった。
演出家が物語を読み解く作業に没頭するのと同様に、パスカルもまた、スコアの読解に余念がなかった。複雑な響きは整然と解かれ、退廃的な旋律や不協和音さえもが有機的な香料となり、クラクラするほどの陶酔感を醸し出させた。


実は東京フィルも、「ピットに入ると、なぜかイマイチ」と時々陰口を叩かれるオーケストラだった。彼らもまた、こうしたネガティブ評価を思い切りぶっ飛ばして見せた。

こうしてみると、二期会、そして東京フィルも、今回の公演では見事に下馬評を覆して、してやったりの高笑い、「やるときゃやるんだ、ざまーみろ」とばかりに溜飲を下げたのだろうかと、思わず勘ぐってしまう。

でも、そんなことを考えるのは、下世話な連中だけなのかもしれない。
彼らの達成感は、音楽のパーツになって崇高な舞台芸術の完遂に寄与した誇りそのものなのだ。

我々はプロの演奏家によるプロの仕事に対して、もっと敬意を払うべき。
改めてそう思った。

ライブ映像の視聴

コロナの影響により、本場欧米の一流歌劇場で上演される公演を現地で鑑賞することが叶わなくなったのは、悲しい。そうした中、自宅でライブ収録された上演の映像を観るのは、せめてもの慰めであり、救いである。

You Tubeで探せば、様々な作品の劇場ライブが見つかる。
しかし、少々問題があって、画質や音質が悪かったり(著作権上問題がありそうなものは、音質などをわざと落とす措置を取っているとの話である)、日本語字幕に対応していなかったりする。
たとえ無料であっても、ていうか、無料であるがゆえに、色々と制約が多い。

結局頼りになるのは、きちんとお金を払って購入するDVDやBlu-ray のソフトや、NHKなどによる衛星放送の映像である。

なんだか最近Blu-ray ソフトを買う機会が増えた気がする。
昔は、買い集めること自体に満足感を覚えるコレクター的収集について、疑問を呈していた。「観たい物があったら書い、買ったらすぐ観る」派だった。
ところが、レア物の場合、「そのうち」なんて購入を後延ばしにしていると、いつの間にか「在庫終了、次回入荷未定」になり、その時焦る。だから近年は「とりあえず買っとこ」傾向も増えてきた。
今まさにステイホームの時期。ならば、そうしたとりあえず買っておいた物は観るチャンス。「いつ観るの? 今でしょ?」(ネタが色褪せてきた・・)ってなもんなのに、なぜかその時間が取れない。棚に収まったままの未視聴ソフトを眺めながら、「うーん・・・」と唸る今日このごろである。


先日、NHKが放映したR・シュトラウスの「カプリッチョ」を観た。C・ティーレマン指揮ザクセン州立歌劇場のライブである。
これをやってくれたのは嬉しかった。素晴らしいキャスト、素晴らしい指揮者、そして素晴らしい作品。演奏ももちろん究極絶品。
しかし、最後の最後で現実を突き付けられるシーンを目の当たりにし、暗澹たる気分になった。

拍手が無いのだ。なんと、無観客上演だったのである。嗚呼コロナ。
だというのに、劇場は通常のとおり演奏終了後、カーテンコール儀式を行った。
歌手たちが一人ずつ登場し、お辞儀をする。拍手はない。シーン・・・。
指揮者が登場し、演出チームが登場する。拍手はない。シーン・・・。

なんて淡々として寂しく、味気ないのだろう。本来なら、盛大な拍手とブラヴォーコールが飛び交う美しいシーンのはずなのに・・・。

改めて思った。
ライブにお客さんは付き物であり、必要不可欠。そして、観客もまた、上演の成功の一端を担うのだ、と。
美しいカーテンコールが、感動の余韻をいっそう引き立てる。

今はやっぱり異常な事態なのだ。

2021/8/23 読響

2021年8月23日   読売日本交響楽団   サントリーホール
指揮  セバスティアン・ヴァイグレ
イサン・エンダース(チェロ)
カバレフスキー  コラ・ブルニョン序曲
ショスタコーヴィチ  チェロ協奏曲第2番、 交響曲第5番


今年に入って3度目のヴァイグレの読響公演。
ということはつまり、ヴァイグレさんは3回も過酷な2週間待機を受け入れ、日本に来てくれたということになる。
なんという心意気! 頭が下がるし、本当に感謝しかない。

一方で、私は心配になる。
これまでは、欧米でロックダウンが施行され、劇場やホールが閉鎖になるなど演奏会開催に強い制限がかかったことから、比較的緩やかに開催が認められた日本に行くことは、それなりに意義があった。たとえ2週間待機を求められたとしても。それで仕事が得られるのだから。

だが、これからは事情が変わってくる。
欧米ではワクチン接種が進み、経済活動を本格的に再開させる方向に舵を切りつつある。先日もテレビニュースでやっていたが、ドイツでもイタリアでも、街は観光客も含め、人が溢れていた。(しかも、誰もマスクしていない!)
それが良いかどうかは別にして、劇場やホールにも徐々に人が戻ってくるだろう。

楽家たちの活動の場が蘇り、舞台が整っていく。
そうした時、彼らは、依然として入国に厳しい措置を課し続ける日本に果たして行こうと思うだろうか・・・。
なんだか取り残されていく予感・・・。悲しいことに日本は後進国なのだ。


暗澹たる気分に陥るが、とにかくこのコンサートを振り返ろう。

ショスタコーヴィチのチェロ協。
1回聴いた程度ではなかなか印象が残らない、ショスタコの中でも比較的マニアックな作品の一つだ。
だが、ソロを務めたエンダースはアプローチが明快で、難解さをスムーズに取り除き、作品の魅力を上手く引き出していた。いい演奏だ。
第1楽章途中で止まってしまったハプニングにはびっくりしたが・・。

あれはいったい何だったのだろう。何が起こったのだろう。
使用していた電子楽譜が上手く作動しなかったのだろうか・・。

近年、電子楽譜を使用する演奏家を時々見かけるようになった。機械である以上、予期せぬハプニングは起き得る。
それでも今後、徐々に浸透し、10年後くらいには主流になっていくのだろうか・・。


メインのタコ5。昨年12月のフェド翁の広響以来。
広響の演奏は、私にとって満足の行くものではなく、せっかくフェドさんを追っかけてはるばる遠征したのに、残念だった。
ヴァイグレの演奏は、この作品を聴いて沸き起こる感興のカタルシスを満たしてくれた。「そう! これ!」と、思わずニンマリ。

まず、純粋に読響が上手い。比較してはいけないし、広響には申し訳ないが、実力の差をこれでもかとばかりに見せつける。
特に弦。ショスタコの演奏に必須とされる「ガッガッガッ・・」という強烈な奏法の凄味がカッコいい。

ヴァイグレのタクトは、読響のイケイケ演奏を煽りつつ、一方で巧みにセーブしつつ、コントロールが盤石。
音楽作りにしても、ロシアのオケのような圧倒的重量感で攻めるのではなく、響きのバランス配分で勝負している感じだ。音色や曲調の変化もしっかり追求していて、まるで音楽が視覚化されるかのよう。「冴えの演奏」という表現がピッタリの名演だった。


コロナ禍における感染対策ルールで、密を避けるために終演後のお客さんの時間差退場というのがあり、指示によってしばらく待たされる。
私はこの措置が嫌いで、最近は最後まで残らず、カーテンコールの途中でおさらばしてしまうことがしばしばある。
だが、この日は最後まで拍手を送り続けた。
もちろん、ヴァイグレさんに対する感謝の念を込めてである。

ヴェルディのレクイエム

前回ブログでも触れたとおり、私の「ヴェルディのレクイエム」初鑑賞は、今から40年くらい前(すっげー昔!)、高校3年生の時、アルベルト・エレーデ指揮の東京フィル公演だった。
エレーデと言えば、mathichenさんもコメントしてくださったとおり、日本オペラ史に燦然と輝く1959年「イタリアオペラ歌劇団」来日公演で、あのデル・モナコが出演した「オテロ」を指揮した伝説の巨匠。そのエレーデを聴いたのだから、本当なら鼻高々なはず。
ところが、何せそれまでレクイエムという曲を知らず、友人から誘われるがままに付いて行ったコンサートということで、実はちょっぴり歯がゆい。
(高校生の分際でエレーデというマニアックな指揮者を知っていたその友人クンは、なかなか大したヤツ。尊敬しちゃうね。ちなみに、私が初めて小澤征爾のコンサートに行ったのも、彼のお誘い。新日本フィルの第9でした。)

むしろ、私の重大なヴェル・レク公演は、その次、2回目鑑賞の時だった。これは人生のエポックメイキングだったと思う。
「1988年9月」といえば、「ああ、あれね」とピンとくる方もいらっしゃるかもしれない。
私にとっての事件、黒船の襲来。
ミラノ・スカラ座来日公演である。

この空前の引っ越し公演、まずムーティが指揮した「ナブッコ」によって、固く閉まっていたオペラの扉が、ガーッと開いた。
そして、数日後に行われたこのレクイエム公演で、「オレは一生ムーティ先生に付いて行く!!」と心に決めた。
忘れもしない。感激でボロボロになるくらいに涙に咽び、演奏終了後、居ても立っても居られずにステージ袖に駆け寄り、最後の最後まで拍手を送り続けたことを。
この演奏は、本当に金字塔であり、決定打だった。
(会場は昭和女子大学人見記念講堂ソリストダニエラ・デッシーアグネス・バルツァ、山路芳久、ポール・プルシュカだった。)


以降、私は先日の二期会の演奏まで、これまでに合計19回生鑑賞している。
そのうち、驚くなかれ、9回がリッカルド・ムーティ指揮なのだ。

これだけ聴いているということは、つまりそれだけマエストロムーティがこの曲を頻繁に演奏している、という証左でもある。
ムーティは、スカラ座音楽監督時代、オペラの引っ越し公演で来日すると、毎回と言っていいくらい特別コンサートとして、この「ヴェル・レク」を演奏した。
スカラ座だけでなく、シカゴ響公演でも、単身来日での東京春祭特別オーケストラとも、この曲を演奏した。
私は更に、ミラノ、ザルツブルク、フランクフルトでも聴いた。(ザルツではウィーン・フィルだった。)

要するに、「ヴェルディのレクイエムこそ、マエストロムーティの一撃必殺の勝負曲」ということなのだと思う。

この勝負曲を9回も聴けたという体験は、私の人生の宝物。
もうこの回数を増やすことは出来ないのだろうか・・・。

2021/8/12 二期会 ヴェルディ・レクイエム

2021年8月12日  二期会   東京オペラシティコンサートホール
指揮  アンドレア・バッティストーニ
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団
木下美穂子(ソプラノ)、中島郁子(メゾ・ソプラノ)、城宏憲(テノール)、妻屋秀和(バス)
ヴェルディ  レクイエム


高校生の時、ブラスバンド仲間の友人に誘われて、ヴェルディのレクイエムのコンサートに行った。その前に、知らない曲だったので、予習するためにカラヤン指揮ベルリン・フィルのレコードを買った。(クラシック初心者だった私は、当時、何でもかんでもカラヤンのレコードを買っていた。)
すると、コンサートに誘った友人くんは、私にこう言ったのである。

「レクイエムもそうだけど、ヴェルディを聴くんだったら、絶対イタリア人指揮者がいいぜ。」

(ちなみに友人と行ったそのコンサート(東京フィル)の指揮者はアルベルト・エレーデ、そいつが推薦したレコードはアバド指揮スカラ・フィルの録音だった。)

当時オペラに興味がなく、それ故にヴェルディにほとんど興味がなかった私は、彼の忠告に対して特に気にも留めなかった。
だが、やがて私は彼の言葉の正当性と重みを知ることになる。(もちろん、リッカルド・ムーティがきっかけである。)


言うまでもなく、イタリア人音楽家が抱くヴェルディへの尊敬と傾倒は、格別である。
きっとイタリア人の誇りであり、伝統であり、血なんだろうと思う。
そしてそれは、アンドレア・バッティストーニが注ぐ情熱にもそのまま当てはまっている。

彼は暗譜で指揮した。
当然だろう。スコアは既に体に染み付き、脳裏に焼き付いている。赴くままに棒を振れば、それがストレートにヴェルディの音楽となる。
彼のダイナミックなタクトからは、テンポや旋律、響き、各楽曲の構成といった表面的な形式ではなく、精神の更なる内面をえぐって音楽の真髄を剥き出しにしてしまおうという不敵な大胆ささえ伝わってくる。

どのコンサートでも、どの指揮者の演奏でも、「怒りの日」ディエス・イレの場面は圧巻激烈だが、バッティのそれは、ほとんど常軌を逸していた。聴いていて、目眩を起こしそうだった。全知全能の神の審判とは、かくも厳しいのだろうか。
バッティストーニは、本当に怒っていた。それは、もしかしたら現下のパンデミック禍の不条理に対してではなかったか。勘ぐりすぎかもしれないが、私にはそのように聴こえた。今この時レクイエムを奏でるのであれば、鎮魂や慰めではなく、怒りの叫びが必要だったのだ。

つくづく残念だったのは、合唱の大人数を揃えられなかったこと。
指揮者も合唱団も、最大限の精度で人的不足分を補った。それはそれで的確だった。
だが、多少の精度を欠いたとしても補って余りある大人数の合唱のド迫力は、絶対に得難いものである。やっぱり、のしかかった制限に対して拳を握るしかない。
(もっとも、大人数の合唱をバッティがあの激しいタクトで煽ったら、このホールの容量を完全にオーバーしてしまったかもしれないが。)

ソリストの歌唱も実に立派だったと思う。それは、この状況下でレクイエムのソロを任されたことの責任と意義を4人とも深く理解していて、それを歌唱にしっかりと投影させたからだ。

それでも、一点だけ欲を言わせていただきたい。
最後のリベラ・メのソプラノパート。
木下さんは歌っていた。素晴らしく、感動的なほどに。
でも個人的に願う。
そこは歌わないでほしい。祈ってほしい。典礼文を呟き唱えてほしい。
イタリア人ソプラノをはじめとするキリスト教の国の歌手たちは、そうしている。ひざまずき、十字架を握り締めている。(バルバラ・フリットリがやると、後光が差して聖母マリアが降臨してくる。)
キリスト教徒ではない日本人にとって、それがいかに難しいことかを理解しつつ・・・。

2021/8/7 日本フィル(フェスタサマーミューザ)

2021年8月7日  日本フィルハーモニー交響楽団(フェスタサマーミューザ)  ミューザ川崎シンフォニーホール
指揮  下野竜也
宮本益光(語り)、石橋栄実(ソプラノ)
ウェーバー  オベロン序曲
ヴォーン・ウィリアムズ  グリーンスリーブスによる幻想曲
ニコライ  ウィンザーの陽気な女房たち序曲
ベートーヴェン  劇音楽エグモント


・ニコライの「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲と言えば、私はカルロス・クライバーが1992年にウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮した演奏を思い出す。
ヨハンやヨーゼフのシュトラウス作品がズラリと並ぶ定番中の定番コンサートで、彼は一発目にニコライのこの曲を選んだ。しなやかで楽しく、しかも端切れが良くて切れ味が抜群。鮮やかな幕開けに、観客(映像や録音の聴き手を含む)はニューイヤーコンサートという場を借りた「クライバー・ワールド」にのっけから引き込まれたのであった。


ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」と言えば、私は20年くらい前に訪れたベルギーのメッヘレンという都市で、フランドル音楽祭の一環で演奏された公演を思い出す。
当時、エグモントといったら序曲しか知らず(今も同じようなものだが)、ストーリーも知らず、何だかよくわからないけど「まあとにかくベートーヴェン聴いたし・・」みたいに無理やり自己満足させてホテルへの帰路に着いたことを覚えている。
あの時は知らなかったが、この物語の主人公エグモント伯爵というのは、フランドルの領主なのであった。ということは、なかなか演奏されないこの作品をフランドル音楽祭が採り上げたのは、それなりに理由、意義があったということなんだなーと、今更ながらに納得。ふむふむ。


・この日の日本フィルのコンサートマスターは、扇谷泰朋氏。
扇谷さん、先日博多で聴いた九州交響楽団の公演でもコンマスを務めていたっけ。肩書は、日本フィルでも九響でも、ソロコンサートマスター
同じく新日本フィルと大阪フィルでソロコンサートマスターを務める崔文洙さんもそうなのだが、オーケストラの顔でもあるコンマスを他のオケと兼職する、それって一体どうなのよ。

いや、演奏家本人にしてみれば、自分の肩書に箔が付くメリットが大きい。だから、これはむしろオケ側が問われるべき問題だろう。
優秀な演奏家を楽団員として招きたい。だけど、そうした優秀な演奏家は引く手あまた。だから仕方がないっていうのは、まあ何となく分からないでもない。でもさ、プロの楽団のアイデンティティとしてどうなのよ!?


・・・以上、なんだか全然日本フィルの演奏の話にならなかったけど、別にいいや。問題なし。