クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2021/4/19 東京・春・音楽祭 ムーティ指揮「マクベス」

2021年4月19日   東京・春・音楽祭   東京文化会館
イタリア・オペラ・アカデミー in 東京 vol.2
ヴェルディ   マクベス(コンサート形式上演)
指揮  リッカルド・ムーティ
管弦楽  東京春祭オーケストラ
合唱  イタリア・オペラ・アカデミー合唱団
ルカ・ミケレッティ(マクベス)、リッカルド・ザネラート(バンクォー)、アナスタシア・バルトリマクベス夫人)、芹澤佳通(マクダフ)、城宏憲(マルコム)、北原瑠美(侍女)   他


東京でこれだけの本格的なヴェルディのオペラが鳴り響いたのは、いったいいつ以来のことだろうか!
これぞヴェルディ、まさしくヴェルディ

そりゃもちろん「スカラを始めとする本場イタリアの劇場も顔負けの演奏」などと囃し立てるつもりはない。
だが、私はこれまでにイタリア各地の劇場でいわゆる本場の物を聴いてきたが、今回に匹敵するような満足感を得た経験は、実はそれほど多くない。イタリア人が本演奏を聴いたら、驚くはずだ。「日本のオーケストラと合唱が、我らがヴェルディの真髄を体現しているではないか!」と。

そのオーケストラや合唱のプレーヤーは、「アカデミー」という名が付いているとおり、主に国内の若手の音楽家たち。
しかし、彼らを「まだプロのタマゴ」などと侮ってはならない。
彼らの真摯に楽譜に向き合う姿を見てほしい。まるで睨みつけるかのように指揮者を見つめる眼差しを見てほしい。
「プロのタマゴ」であるからこそ、ヴェルディの伝道者たる巨匠のタクトに食らいつき、指示を一言一句聞き逃さず、忠実に実践しようと全力を注いで演奏しているのである。

つまり、彼らの演奏こそが「ムーティの音楽」そのものなのだ。

逆に言えば、これほどムーティヴェルディ解釈を分かりやすく伝えてくれる手段はない。ムーティが「マクベス」を演奏するにあたって念頭に置いているもの、必要なもの、大切なもの、そのすべてが表現されている。

例えば、極限的とも言える精緻なピアニッシモ
講演会でもマエストロは嘆いていた。「今や世界中のどこの劇場でも、メゾ・フォルテからフォルテシモでしか演奏されなくなってしまった」と。
ヴェルディが楽譜に記載した「PP」の意味は何なのか。なぜヴェルディはそこに「PP」を付与したのか。
その答えがムーティによって詳らかにされる。

ピアニッシモは、人間の「胸の内」の表現なのだ。「心情」なのだ。
そして、そうした胸の内、心情の表現こそが、劇の音楽すなわちオペラの中で重要な要素なのである。

こうして、ヴェルディの真髄が若い演奏家に受け継がれていく。
ムーティが残りの音楽家人生を賭けた取組みは、こうして実を結んでいく。

その過程を日本で直接生で見つめることが出来たのは、この上ない幸せだ。

2021/4/17 東響

2021年4月17日   東京交響楽団   サントリーホール
指揮   原田慶太楼
服部百音(ヴァイオリン)
ティケリ   ブルーシェイズ
バーンスタイン   セレナード(プラトンの『饗宴』による)
ショスタコーヴィチ   交響曲第10番


午後2時からのN響に続き、午後6時からの公演をはしご。若手のホープ原田さんが東響の正指揮者に就任する、その記念公演ということで、駆けつけた。
原田さん、近年急速に国内での活路を開いている注目の指揮者である。もしかしたら、今、もっとも勢いのある人かもしれない。
本人も東響の正指揮者就任にあたり、当然のことながら「よし! いっちょやったろ!」と意気込んだはずで、まさにそれが目に見えるようなプログラムである。


ところで、私は以前、とある高校の教師で、吹奏楽部顧問として活躍し、県のコンクールを何度となく制したことがある人から話を伺ったことがある。
その人曰く、コンクールに適した曲(つまり、入賞しやすい曲)を選ぶポイントというのがあるのだとのこと。

まず、審査員にもあまり知られていないような、珍しい掘り出し物の作品を探し出してくること。
これは、有名な曲ほど聴く人の思い入れや解釈が既に染まっているため、そういうのを避けることで、独自色を打ち立てることが出来るのだという。
二点目、曲の中に必ずパンチが効いている部分、華々しく狂騒的な部分があって、鮮烈なインパクトを残すような作品を選ぶこと。
特に、打楽器が活躍する曲がいいんだそうである。見栄えするからだそうだ。

今回、原田氏が選んだプログラムの作品を聴いて、私はこの話を思い出してしまった。
前半の2曲、まさしくそういう作品だったからだ。

聴衆のハートを一気に掴むナイスな選曲。原田さんの狙いはズバリ当たった。
挨拶代わりに、自らの拠り所となっているアメリカの作品を持ってきて、いきなり得意技を繰り出し、狙いどおり一本勝ちを収めたというわけ。
観客は「お!? これはなかなかいいぞ! 面白いぞ!」と思ったはず。熱狂の渦が巻き起こり、拍手は鳴り止まず、ソロ・カーテンコールまで続いた。
まさにしてやったり。

この戦略的とも言えるしたたかさが功を奏した門出を、とにかく祝福しよう。

問題は、これから。これから何をやるのか。
聡明な彼のこと。きっとあの手この手を使って、これからもファンの心を掴んでいくに違いない。実際、別に発表されているN響の客演のプログラムにおいて、やはり独自性を大いにアピールしようとしているようだ。

うーむ、これは何だか下野竜也氏の道を行くような気配がないではないが・・・。
とにかく、今回たとえ「そういう曲を選んだ」とはいえ、これだけオーケストラの音を鮮やかにビシッと決めてきたタクトと手腕は、大したもの。

いずれ、ベートーヴェンブラームスモーツァルトのような定石の作品で勝負してくる日がくるのだろうか。

ま、とにかく注目していきましょう。

2021/4/17 N響

2021年4月17日   NHK交響楽団   東京芸術劇場
指揮   鈴木雅明
吉井瑞穂(オーボエ
ハイドン   交響曲第95番
モーツァルト   オーボエ協奏曲
シューマン   交響曲第1番 春


私にとってハイドン交響曲は、代表的な100番以降と標題が付いているいくつかのもの以外は、はっきり言ってどれも皆一緒である。
大した区別もつかないし、あまり気に留めてもいない。コンサートのプログラムに入っているからといって、予習をするでもない。予習をする必要さえもないと思っている。どれも皆同じに聴こえてしまうからである。

そういうことなので、今回「95番」を聴くことになっていても、「ふーん」みたいな感じだったが、「ところで以前に聴いたことがあるのだろうか?」とちょっと気になり、マイ・データベースで調べてみた。そしたらなんと、大昔の35年前に一度聴いていることがわかった。
ショルティ指揮シカゴ響の来日公演だった。(メインはブル7)
このハイドンの演奏は当然覚えていないんだけど、なんだかちょっとノスタルジックな気分になりました(笑)。


今回のN響公演の最大の目玉は、吉井瑞穂さんソロのモーツァルトのコンチェルトである。この一曲のためにチケットを買ったと言っていい。
優秀なプレーヤーであることは重々に承知していたが、私は彼女のソロを聴いたことがなかった。

もちろん、オーケストラプレーヤーとして名を連ねた演奏は何度も聴いたことがある。マーラーチェンバー、ルツェルン祝祭。それからN響の客演も・・。
4年前、N響に賛助出演した公演(エッシェンバッハ指揮)、なんだかN響オーボエからいつもとは違う非常に美しくて麗しい音色が聞こえてきて、「ん?? オーボエめっちゃ上手いぞ? 誰だ?」とびっくりしたことがある。それが吉井さんだったというわけだ。

本場欧州のオケに在籍している実力は伊達じゃない。言うまでもなく日本人プレーヤー(このくくりは好きじゃないが)としては頭抜けているわけだが、特に、オーボエ奏者ということで特筆すべき存在だ。
というのも、昔から外来オーケストラ公演を聴いてきて、日本のオーケストラと実力の程度の差がはっきり出ているパート(楽器)があることに気付いていて、それがホルンとオーボエだからだ。

さて、今回のコンチェルト、期待どおり本当に素晴らしい演奏だった。
信じられないことだが、楽器を奏でているという感じがしないのである。「自然界から聞こえてくるようなサウンド」とでも言おうか。「心地良いそよ風が皮膚を撫でる爽快感」、あるいは「森林浴の中で感じる木々の香り」などと形容すればいいのだろうか。

ソロを支えるN響の伴奏も、とことん優しい。
ていうか、オケ奏者の方々は、たぶん「支えている」、「伴奏している」という意識はなかったのではあるまいか。
彼女の演奏を肌で感じれば、自分たちの演奏の音も自然とそこに寄り添っていく。
そうしていれば、それだけに集中しさえすれば、自ずとアンサンブルが整い、絶妙のサウンドが構築されるというわけだ。


ブログ記事としては、こうしてコンチェルトのことだけを記し、メインの演奏のことを省略して終わりにしてもよかった。ていうか、そうなるのではないか、と予め想像していた。
ところが、予想以上にメインのシューマンも素晴らしかったので、やっぱり書き留めておく必要が出てきてしまった。

N響の合奏の精度が極めて高く、感動的だ。
これはもちろん、音楽の構成を見事にまとめ上げながら、作品の魅力を鮮やかに引き出している指揮者鈴木さんの貢献も併せて称賛すべきであろう。

2021/4/11 東京・春・音楽祭 合唱の芸術シリーズ

2021年4月11日   東京・春・音楽祭   東京文化会館
合唱の芸術シリーズvol.8
指揮  シュテファン・ショルテス
管弦楽  東京都交響楽団
合唱  東京オペラシンガーズ
天羽昭惠(ソプラノ)、金子美香(メゾ・ソプラノ)、西村悟(テノール)、大西宇宙(バリトン
シューベルト  交響曲第4番 悲劇的
モーツァルト  レクイエム


ムーティが来る!」、「ムーティが来る!」
皆がにわかに色めき立って騒ぎ始めた東京・春・音楽祭。明るいニュースで沈みかけたフェスティバルの勢いが一気に持ち直したそんな最中、ひっそりと“もう一人の”外国人指揮者が来日した。
「おいおい、オレもだぞー。忘れちゃ困るんだよー。」

そうですショルテスさん、日本にようこそ!(笑)。
もちろんワタクシは貴殿のことをよーく存じ上げておりますよ、はい。
随分と昔の20年くらい前、ドイツ国内では「エッセン・アールト劇場が、なんだかいいぞ!」という評判が沸き立っていた。実際、権威あるオペラ専門誌「OPERN WELT」が最優秀劇場に選定したこともある。
その当時、音楽監督として同劇場の実力を飛躍的に高めたのがショルテスだった。私も2004年にその真価を確かめたくてエッセンを訪れ、彼が振る「ばらの騎士」を鑑賞した。

これまでに私がショルテス指揮の公演を鑑賞した5公演は全てオペラで、しかも全てR・シュトラウス作品。
そういう意味で今回のプログラムは、これまでと違うぶん、楽しみにしていた。公演が中止にならず、こうして無事に開催され、本当に何よりだ。


そのショルテスの音楽。
バランスの取り方、ニュアンスの作り方、全体の方向性の導き方、どれもが理想的にまとめられ、堅実。響きは透徹で、彫りが深い。
まさしく職人技といった趣きだ。

一方で、たった1回のコンサートにかける意気込みや熱意がもっと全面に出るかと思いきや、意外と淡々とした佇まい。
この人、タクトを振りながら、熱くなると結構唸る人なのである。
そうした情熱で、これまでに彼が振ったシュトラウス作品では、芳醇な香ばしさが感じられただけに、そういう意味でちょっと意表を突かれた感じ。

いやいや、シューベルトとかモーツァルトなんだから、そういうもんだろ、と言われれば確かにそうなわけだが・・。

まさか、熱くなると思わず唸り声を発してしまい、そうすると飛沫が飛んじゃうので、ちょっと芸風を変えてみました・・・なんてことはないよねぇ(笑)。

アルゲリッチ様~(泣)

今年の別府アルゲリッチ音楽祭の開催概要が発表された時、私は「現状においてアルゲリッチの入国は難しそうだし、結局中止の可能性が高いよな」と見ていた。
ところが、4月に入ってムーティの入国が認められると、ネットでは「アルゲリッチも来る!」と騒ぎ始めていた。どうやら「認められるかどうか不透明だけど、とりあえずやる方向での開催概要発表」ではなくて、「入国が無事に認められたことを受けての正式発表」のようだった。

そういうことなら、話は別である。チケット獲得を是が非でも目指さなければならない。何だか急に色めき立った4月早々の頃だった。

ミシャ・マイスキーとのデュオコンサート。別府と東京(オペラシティ)とで一公演ずつ(※)。チケットの発売初日は4月10日。要するに昨日。
(※ 別府では、愛弟子伊藤京子さんとのデュオコンサート(お話つき)や、室内楽コンサートも予定されている)

私は公式サイトからの専用オンラインチケット(ネット販売)に参戦した。
しかし、アクセスが集中し、しばらくまったく繋がらない。
発売開始から10分経過し、ようやくサイトに入れた! と思ったら、なんとまあ、時既に遅し。東京公演は全席ソールドアウトになっていた。
あっちゃー・・・・。
さすがはアルゲリッチ。相変わらずものすごい人気だ。

仕方がない。別府公演、買いましたよ。

アルゲリッチももう79歳。後々「あの時、聴いておけばよかった」なんていう後悔は絶対にしたくない。
(それにしても、アルゲリッチムーティ、共に1941年生まれなんだな)

すかさず別府市内のホテルを押さえ、大分の往復航空券も購入。「やれやれ、ふう・・」と一息つきながら、ふとTwitterのタイムラインを眺めると・・・。

東京オペラシティコンサートホールのチケットセンター(電話のみ)は、まだまだ残ってますよ!」との情報が・・・。

え!? 嘘だろ。ウソだよな・・。頼むからウソだと言ってくれ・・。

発売開始から6時間が経過した頃の昨日の午後4時、オペラシティのチケットセンターに恐る恐る電話して聞いてみました。

「はい、現在GS席、S席、A席がご用意出来ます。」
・・・。
余裕じゃねえかよ・・・。

「あ”ぁぁぁーー■※§ΦД!!!」

いいよ、もう。オレ温泉に入ってくるから。観光もしてくるから。うまいもん食ってくるから・・・。

てやんでい。くそー。

リッカルド・ムーティによる「マクベス」解説

4月3日に「ムーティ様、御来日!?」というタイトルで記事を書き、「ホントかよ!?」と驚いたところだったが、なんと、この時、ムーティはもう既に日本への入国を済ませていたのであった。

このムーティを含めた外国人キャストの来日実現の経緯、関係省庁との交渉過程については、東京・春・音楽祭事務局の担当者が、公式HPの中の記事「ふじみダイアリー」で詳しく紹介している。内情が詳らかにされており、非常に興味深い。担当者さんは相当ご苦労されたみたいだ。
案の定というか、当局は入国を許可するにあたり、申請した音楽祭のアーティスト全員には難色を示し(事実、入国が叶わなかった、あるいは間に合わなかったキャストは多数いた)、ムーティのような「抜群の国際的知名度のある人」と「そうでもない人」とで選別の色分けをして、当初は「ムーティ一人だけの来日でどうか?」みたいな回答を出してきたという。

やっぱりな・・。どうせそんなことだろうと思ったよ。

結局、当局にしても政府にしても、ウケのいい政策、インパクトがあって宣伝効果が見込める発表をしたいということだ。まさに昨年のウィーン・フィルと同じ。

まあ、なにはともあれ外国人の入国については、全面解禁には至らずとも、「一部について、条件付きで認める」方向が示された。これは、一歩前進と言えるだろう。
こうして新国立劇場「ルチア」の外国人指揮者や歌手などのキャストが来日を果たし、日本フィルのラザレフ将軍も来日を果たした。更には、これからバレンボイムアルゲリッチもやってくる。楽しみが増えてきたわけだ。


さて、二週間待機さえも免除になった「特例待遇」の大御所R・ムーティによる「マクベス」作品解説(イタリア・オペラ・アカデミーin東京vol.2)が昨日東京文化会館で開催されたので、これに行ってきた。

開演の定刻になると、いつもと変わらないマエストロが元気に登場。本来なら、このアカデミーは昨年に実施するはずだった。ようやくの実現に「お待ちしておりました! ようこそ!」という気持ちでのお迎えだ。

ステージには、アカデミー参加者兼本公演出演者である日本人歌手も登場。元々の予定ではなかったらしく、急遽の決定だったようだが、これによって、作品解説のお話(講演)というよりも、歌手たちのリハーサル・稽古風景、あるいはマスタークラスみたいな形式になり、俄然白熱することとなった。


ムーティが話すこと、その主義主張については、彼がずっと前から言い続けていることで、潔いばかりに一貫している。
端的に言えば、要するに「スコアに忠実であれ」ということに尽きる。
一昨年、同様に「リゴレット」解説のイベントがあったが、その時もだいたい同じようなことを話していたし、彼のドキュメンタリー映像等を見ても常に似たようなことを語っている。
つまり、音楽家の使命として、生涯をかけて取り組んでいるテーマと言っていいだろう。
逆に言えば、現代のクラシック演奏現場において「いかにこのことが疎かにされているか」という裏返しに他ならない。ムーティはこれに危惧し、警鐘を鳴らす意味で積極的に活動しているわけである。

「表現が許されているのは作曲家だけなのだ」
エストロが語ったこの一言は、重みを持っている。

一方で面白かったのは、指揮者という音楽家でありながら、「テキスト(脚本)」に沿った演技や歌い方にこだわりを持っていることである。
歌手に対し、歌もさることながら、話し方(例えばマクベス夫人が手紙を読む時のセリフの言い回しなど)まで徹底する。
これは、演奏家は音楽的な部分だけでなく文化や言語までも押さえる必要性を説いている、ということだろう。
「イタリアと言えば、『太陽』『トマト』『モッツァレラ』『ピザ』と思っている人が多い。でもそうではない。『ミケランジェロ』『レオナルド・ダ・ヴィンチ』『ラファエロ』・・・これらがイタリアなのです。」という言葉も印象に残った。

エストロは、歌手たちに「なぜ、そのように歌いましたか?」「なぜだと思いますか?」「どう思いますか?」などと積極的に疑問を突き付けていた。
「perché?(なぜ?) perché? perché?」
「perché?って日本語で何て言うんだい? ん? 『ナ・ジェ?』」
には笑ってしまったが、これに対して歌手の方々は誰一人明確に答えることが出来ない。当惑の表情を繕いながら指揮者からの回答を待っている。

日本人という民族は「間違っていたら嫌だな、恥ずかしいな」という気持ちが先に立ち、正々堂々と意見を言えないというのが、はっきりと露出した瞬間。
これが欧米人なら、お構いなしで積極的に自分の考えを主張するだろう。

つくづく日本人だな、と思う。

 

 

2021年4月9日  東京・春・音楽祭 イタリア・オペラ・アカデミーin東京vol.2
リッカルド・ムーティによる「マクベス」作品解説    東京文化会館
青山貴(マクベス)、谷原めぐみ(マクベス夫人)、加藤宏隆(バンクォー)、芹澤佳通(マクダフ)、城 宏憲(マルコム)、北原瑠美(侍女)、浅野菜生子(ピアノ)

2021/4/4 新国立「夜鳴きうぐいす」「イオランタ」

2021年4月4日   新国立劇場
ストラヴィンスキー   夜鳴きうぐいす
チャイコフスキー   イオランタ
指揮  高関健
演出  ヤニス・コッコス
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団
三宅理恵(うぐいす)、針生美智子(料理人)、伊藤達人(漁師)、吉川健一(皇帝)、ヴィタリ・ユシュマノフ(侍従)
妻屋秀和(ルネ国王)、井上大聞(ロベール)、内山信吾(ヴォーデモン)、ヴィタリ・ユシュマノフ(エブン・ハキア)、大隅智佳子(イオランタ)、山下牧子(マルタ)     他


何度か言及しているのでご存じの方もいるかもしれないが、私がチャイコフスキーの作品で一番好きなのが、「イオランタ」だ。
悲愴よりも、チャイ5よりも、チャイコンよりも。
いとしのイオランタ。チャイコのオペラは「オネーギン」、「スペードの女王」だけじゃないことを是非多くの人に知ってほしい。こんなに素晴らしい作品があることを是非知ってほしい。
新国立劇場の公演で、そのことにたくさんの人が気付いてくれることを、私は望んでいる。

さて、その「イオランタ」だけでなく、ストラヴィンスキーの「夜鳴きうぐいす」をダブルビルで並べた今回。2作品は特色も系統も違っていて、一見すると、水と油とまでは言わなくとも、異色の組み合わせである。
そこらへん「さすが芸術監督大野和士さんのセンスが光る」と持ち上げたいところだが、残念ながらこの組み合わせの公演は過去に存在している。
2011年8月、ザルツブルク音楽祭。私は行きました。
大野さんは知っていたのかなあ。
もし知らなかったとしたら、チョイスにあたり、専門家ならではの鋭い視点が重なったということだろう。知っていたのなら単なるパクリ(笑)。

ザルツの時の指揮はアイヴォール・ボルトン
特に「イオランタ」のキャストが豪華で、タイトルロールがA・ネトレプコ。以下ヴォーデモン役にP・ベチャワ、レネ国王にJ・レリエ、エブン・ハキア医師役にE・ニキーチン。
とてもじゃないが、新国立とは比較なんか出来やしない。
ただし、この時はコンサート形式上演だった。今回、オペラ上演を敢行した新国立は注目に値する。私自身、イオランタも夜鳴きうぐいすも、本格的なオペラ上演を観たのはこれが初めて。だから、誠に喜ばしく、嬉しく、率直に感謝申し上げる。

実際、2作品を鑑賞して、非常に感激した。舞台はメルヘンチックで美しかったし、景色の動きもあって、耳だけでなく見た目でも楽しかった。
演出家はちゃんと2作品に共通する切り口を用意していて、何かというと「光」であった。
夜鳴きうぐいすでは場面や時間の経過に対して光を当て、イオランタでは主人公の心情の変化や困難を乗り越えた先の希望に光を当てた。
リモートで演出を行ったヤニス・コッコスとそのチームはいい仕事をしたと思う。相当大変だっただろうけど。

で、改めて思った。
オペラの演出って、結局こういうんでいいんだよなー、と。
読替えなんかなくたっていい。難しい思想や哲学を盛り込まなくたっていい。
見た目が美しくて、楽しくて、単純に「素晴らしい!」と思えるような舞台を作れば、それでいいじゃないか。

と言いつつ、読替演出も私は好きなわけだが(笑)。

要するに、読替えでもオーソドックスでもいいから、何か心に残るというか、考えさせられるというか、鑑賞したことでプラスになるものが見つかれば、それでオッケーということだと思う。


指揮者高関さんがリードする音楽に関しては、前半のストラヴィンスキーが面白かった。
劇的という意味においてはチャイコフスキーの作品に分があり、観客に「どっちが良かったか」と尋ねれば、イオランタの方が支持されるだろう。
だが、指揮者は「うぐいす」に潜む作曲技法の変遷をしっかりと捉え、これを丁寧に提示していた。この貢献は見逃せない。


歌手では、うぐいす役の三宅さん、イオランタ役の大隅さんが、いずれも役をしっかりモノにして聴き手を惹きつけていた。ベテラン妻屋さんの味のある歌唱も良かった。

ロシア出身で日本を拠点して活躍しているユシュマノフ。ロシアン・オペラを国内で手掛けるにあたり、彼の存在価値は大きい。美男子だし。
だが、声量に乏しいのが誠に惜しい。
もちろん大きければいいというものではないが、何を歌っているのか不明瞭な部分が多々あるのはマイナスと言わざるを得ない。