クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2021/2/12 N響

2021年2月12日   NHK交響楽団   東京芸術劇場
指揮  熊倉優
イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)
スメタナ   歌劇「売られた花嫁」より 3つの舞曲
シマノフスキ   ヴァイオリン協奏曲第1番
ドヴォルザーク   交響曲第6番


元々、首席指揮者のP・ヤルヴィが振る予定だったプログラム。曲目を変更せず、そのまま引き継いで指揮台に立ったのは、若手の熊倉優。N響を振るヤルヴィのアシスタントを務めたこともあるとのことで、そうしたこともあって、これまでにも何度かN響を振っている。

既にオーケストラとの間に信頼関係が構築されていることが、はっきり見て取れた。
これはなかなか大したものである。

N響は、エリート意識が高いオーケストラだ。そのぶん、指揮者を見る目も厳しいと聞く。
「まだ駆出しなんで、よろしく~」みたいな甘えは許されないし、能力以上に見せかけようとして居丈高に振る舞っても、すぐに本性がバレて一蹴される。
そんなオーケストラの連中が、この若い指揮者のタクトに従い、全力で演奏しているのである。
それは、熊倉優という指揮者が、確固たる音楽観と的確なバトンテクニックを持ち合わせている何よりの証拠であろう。

実際、彼のタクトとその統率ぶりを目の当たりにして、私も大変好感をもったと同時に、なぜオーケストラからの信頼を勝ち得たのかが分かったような気がした。

一言で言えば、理路整然としているということだ。
音楽にしてもタクトにしても。
オーケストラはとても演奏しやすいのだと思う。

あとは、とても謙虚だということ。
カーテンコールでは、オーケストラと同じ位置に立って挨拶。なかなか指揮台に上がろうとせず、コンマスのまろさんから何度も何度も促される様子は、とても微笑ましい。
謙虚であるというのは、人間関係の構築において、きっと重要だよね(笑)。


メインのドヴォ6。本当にめっちゃ久しぶりに生で聴いた。
マイ・データベースで調べてみたら、35年ぶりであった。
1986年の都響公演。指揮はズデニェク・コシュラー。
コシュラー、知ってる?
若い人はもう知らないかもしれないな。

ドヴォ6という曲がマイナーであまり演奏されないというのもあるし、私自身ドヴォが大の苦手で、食指が動かないというのもある。
超久しぶりに聴いても、「ドヴォはドヴォ」。見かけは交響曲の形に整っていても、中身はチェコ民謡。思わず「ぷっ、ぷぷっ」と笑ってしまう箇所あり。

ただ、それでも結構楽しめましたよ。
これはきっと熊倉くんの溌剌としたタクトのおかげだな。どうもあんがとござんした。


イザベル・ファウストのコンチェルトは、一見クール・ビューティだが、静的な外面の中に、必ず動的な何かを仕組んでくる。表面だけを見つめているとその真価がよく分からないという、一筋縄でいかない演奏。これまたいかにもイザベル・ファウスト

アバド指揮ルツェルン祝祭管の「復活」

東京フィルと都響の「マラ2」公演が残念ながら中止になってしまったので、その代わりに2003年ルツェルン国際フェスティバルのライブ映像、クラウディオ・アバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団による「マラ2」を視聴した。

この映像を観るのは初めてじゃない。語り草となっている伝説公演の貴重なライブは、CDにもDVDにもなっているし、衛星放送などでも放映されている。

それでも改めて視聴して、目と耳が釘付けになってしまった。
映像から飛び出てくる演奏の音も凄いのだが、画面に現れるルツェルン祝祭管の面々、ステージ上に居並ぶ世界的奏者たちのなんと壮観なこと!
いやはや、なんですかこれは!! まさにオールスター級。

コンマスのコリヤ・ブラッハーを始め、E・パユ(fl)、A・マイヤー(ob)、S・ドール(hr)、G・ファウスト(vc)、W・クリスト(vla)、S・マイヤー(cl)といった新旧のベルリン・フィル首席たちが、各パートにがっちり配置されている。2nd Vnのトップ奏者も、名前は存じてないけど、この人も元ベルリン・フィルだな。見覚えがある。

それ以外にも、ルノー・カプソン(vn)、ラインホルト・フリードリヒ(tp)・・・ハーゲンQのメンバーも見える。

彼らは皆、「アバドと一緒に音楽をやりたい」という一心で集まったエリートたち。
前年にベルリン・フィル音楽監督を退任して、その後にルツェルン祝祭管の音楽監督就任が決まると、そこに多くのベルリン・フィルの精鋭たちが「我も」とばかりに馳せ参じた。その事実が、アバドに対する信望を物語っている。彼らはもっともっとアバドと一緒に音楽をやりたかったのだ。
退任を発表した時は色々な憶測や噂が飛び交った。だが、少なくともメンバーたちからは慕われ、惜別だったのだろう。

だからというわけではないが、オーケストラ奏者たちは皆、嬉しそうで、誇らしげで、実にいい表情をしている。で、全身全霊で音楽を奏でている。
これ、試しに音声をオフにして映像だけ見てみるといい。
音がなくても、音楽のうねりや抑揚の波、熱いほとばしりなどが手に取るように分かる。タクトへの感度はマックス。アバドと一緒に音楽をする喜びが溢れ出ていて、それがひしひしと伝わってくる熱演なのであった。

オーケストラの基礎母体がマーラー室内管ということで、オーボエのセカンド、あのA・マイヤーの隣で真剣な眼差しを指揮者に注ぎながら演奏しているのが、吉井瑞穂さん。彼女にとって、このステージ経験は何物にも代えがたい財産だろう。


それにしてもアバドベルリン・フィルを退任し、その翌年、音楽監督就任後初のお披露目公演のプログラムにマーラー交響曲第2番を持ってくるとは!
意味ありげ!? 何か込めてる??(笑)

大病を患い、さぞや大変だったであろうベルリン・フィル音楽監督を退任して、あとは余生をゆっくりくつろいで、気楽に音楽をやって過ごせばいいのに、「復活」だもんな。
ってことはなにかい? 反撃の狼煙ってことかい?

実際、指揮ぶりを見ていると、アバドの本気度が一目瞭然。普段は温和な人柄が滲み出るようなアバドだが、鬼気迫るようなタクトだった。これはオケも燃える。

そのアバドの演奏を聴いて、改めて思った。
マーラー交響曲第2番、復活、この曲は指揮者の生き様を語るのに相応しい。
ていうか、それくらいの執念を見せつけないと、この作品は輝かないような気がする。


「コロナのせいで公演が中止になったから、代わりに何か聴こう」みたいな気軽な気持ちで視聴したのだが、いざ聴き始めたら、アバドの壮絶な音楽家人生、指揮者魂を見せつけられて、思わずのめり込み、胸が熱くなってしまった。
いやー、すごいなあ。

ところで、会場にカメラが向けられると、そこには在りし日のマリス・ヤンソンスのお姿が・・・。
もうお二人とも鬼籍に入られているというのが、時代の移ろいを物語る。令和だもんな。

「復活」ならず

今月21日と24日に予定していた東京フィルのチョン・ミョンフン指揮マーラー交響曲第2番の定期演奏会が、主催者から中止と発表された。
外国人の入国を厳しく規制する措置の最中なので、「チョン・ミョンフンの来日は、まあ無理だろう」というのは、誰もが予想できたこと。それでも、誰か他の日本人指揮者に代替させて、公演を実現させてくれるのではないかと、私は密かに期待していた。

残念ながら、その期待は叶わず。

実は今月、当初のスケジュールでは、偶然にも東京フィルと都響大野和士指揮)の二つのオーケストラが、ほぼ重なるかのような日程で「マラ2」公演を用意していた。

これは実に興味深いことであったと思う。
世界中がパンデミックの嵐に巻き込まれ、明るい兆しが依然として見えないという、まさにそうしたタイミングで、二つの「マラ2」公演が並んだのだ。
もしかしたら、このプログラムはずっと前、コロナが始まる前から決まっていたのかもしれない。蓋を開けてみたら、このスケジュール、このタイミングで二つが並んだわけだが、私にはなんだか「偶然」「たまたま」とは思えない。こういう状況下だからこそ、このプログラム、この作品が必要だったのではないだろうか。
そんな気がするのだ。だって、文字どおり「復活」なのだから。

東京フィルの本公演のサブタイトルは、「必ずよみがえる!」だった。
私はこのタイトルを見て、思わずジーンと来た。
そうだ。必ずよみがえるのだ。
この演奏を聴いて、我々は希望を見出そうではないか。
最終楽章で合唱が高らかに「Aufersteh'n, ja aufersteh'n」(蘇るだろう)と歌い上げるのを聴き、ビリビリと感動にまみれながら、明日に向かっていく勇気を貰おうではないか。

だからこそ、だからこそ、やってほしかった。
チョン・ミョンフンじゃなくたっていい。マラ2を、復活を、やってほしかった。
(チョンは、2017年9月にもこの曲を同フィルと演奏している。)

同じような思いに駆られたクラシックファンは、多かったのではなかろうか。

東京フィルは、なぜ中止という結論にしてしまったのだろう。

ちなみに都響はプログラムを変更した上で、演奏会そのものを存続させた。(ブラームスの「アルト・ラプソディ」と「マラ4」)
都響が「マラ2」を断念したのは、理解できる。
飛沫が飛び交うリスクが伴う合唱入りの作品の演奏に対して特に慎重で、昨年末の「第9」も回避し、チャイコの「くるみ割り人形」に変更したくらい。曲がりなりにも「東京都」の看板を背負っている以上、仕方がないことなのだろう。

一方で、東京フィルは昨年末の「第9」も演奏したし、都響のような公的責務の縛りも無い。
また、中止にすれば入場料収入を失うことになり、少なからずの損害を被るのは明白。
普通に考えれば、上に書いたとおり、誰か他の日本人指揮者に代替させて公演を実現させる運びにするのが、まっとうな手段のはずだ。

ここで思い起こすのは、昨年秋の東響だ。
当初、J・ノット指揮によるブルックナー交響曲第6番がメインプロの公演が予定されていたが、ノットが来日不可能となると、指揮者を替え、メインプロを替え、装いをまったく変えて公演を強行させた。払い戻し原則不可とした主催者に対し、チケットを買った私は「こんなの詐欺だ」と憤慨した。

あとから聞こえてきた話によれば、この時、東響事務局は、指揮者を替えつつ、メインプロ(ブル6)はそのまま据え置いて、公演をやろうとしたらしい。
ところが、音楽監督自身が「この作品の演奏は私自身が責任を全うし、いずれ実現させる」と申し入れたため、やむを得ず、指揮者とメインプロを変えた「ほぼ別物」公演になってしまった、というのである。

あくまでも聞いた話なので、真実のところは分からないが。

同じようなことが、東京フィルでも起こったのではあるまいか。
同じようなやりとりがあり、片や続行、片やキャンセルの判断をした・・。
もちろん、個人的な憶測、勘ぐりだが。


まあいいわい。
とにかく中止と決まったのだ。もうどうしようもないのだ。


考えてみれば、昨年、ベルリン・フィルの来日公演で「マラ2」が予定され、ロンドン響の来日公演で「マラ2」が予定され、いずれも中止。
そして、東京フィルと都響も。

「人類は、いつか必ずコロナに打ち勝つ」と言われている。
だが、今のところは負け続きだ。

早く生で「マラ2」を聴きたいね。
そりゃいつかは聴けるだろうさ。
でも、いったいいつになるんでしょうね。

2021/1/25 モルゴーア・クァルテット

2021年1月25日   モルゴーア・クァルテット   東京文化会館小ホール
荒井英治(第1ヴァイオリン)、戸塚哲夫(第2ヴァイオリン)、小野富士(ヴィオラ)、藤森亮一(チェロ)
ウェーベルン   弦楽四重奏曲
ベルク   弦楽四重奏曲
シェーンベルク   弦楽四重奏曲第1番


私の場合、リサイタル形式になっているようなデュオのコンサートにはよく行くが、トリオ、クァルテット、オクテットなどといった室内楽のコンサートにはあまり行かない。
別に「嫌い」というわけではないが・・・なんだろうね、あんまり聴かないんだよね。

大昔にヴァイオリンを演奏したことがある自分の経験上から一つ言えるのは、「室内楽は、自分たちがやるのは、大いに楽しい」ということだ。「奏でて楽しむ音楽」と言っていい。

逆に言えば、「聴いて楽しめる音楽かどうかは、各自のお好み次第」と、ちょっと歯切れが悪くなる。

もちろん「いやいや、絶対に聴いて楽しむ音楽だろ!」という意見を決して否定しない。
だが、少なくとも私の場合、演奏を聴いていて、少しでも「あ、コイツら自分たちで弾いて、自分たちで勝手に楽しんじゃっているな」と感じた時、一瞬で興ざめする。

私が室内楽コンサートにあまり行かないのは、たぶんこれが理由なんだろうと思う。


そんなわけであるが、なにはともあれ本公演のプログラムをやられたら、これはもう黙っていられない。「これやるか!? マジか!? ならば行かねば!」なのである。

その昔、ベルクの弦楽四重奏曲のスコアを見たことがある。
ラクラと目眩がした。
常軌を逸した作品。こんな難しい曲、どうやって演奏するのか。

本公演は、全部がそうした作品。これらをずらりと並べた意欲的な、というより、超難関、恐怖の自虐プログラム。演奏家にとって、正にチャレンジング。
演奏側だけではない。聴き手にも極度の集中力を強いる、上級者向け、試練のプログラムである。

だが、モルゴーアQの演奏は素晴らしかった。聴き応え十分の演奏だった。
単に弾き通すだけでも大変なのに、演奏を通じてそこから何が見つかり、何が生まれるかを懸命に探っている。作品の真髄に迫り、新ウィーン楽派の潮流にまで迫ろうとしている。「仲間で演奏して楽しんじゃっている」感ゼロ。

まあ考えてみれば、当たり前か。なんたって彼らは日本を代表する弦楽奏者たち。凄腕の名手。
「元東京フィルのソロ・コンサートマスター」「現東京シティ・フィルのコンサートマスター」「現N響チェロ首席」「現N響ヴィオラ次席」というそれぞれの肩書は伊達じゃない。


モルゴーアQの定期演奏会は、今回が50回目の記念公演。恥ずかしながら、私は初めて聴いた。
聞けば、結成の当初目的は、「ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲の全曲演奏」だったそうである。その目的は、既に過去3回も完結させているのだという。

私は自称「タコマニア」だというのに、これらの機会をいずれも逃しているのだ。

何たる失態・・・。恥ずかしい・・・。

2021/1/24 東京フィル

2021年1月24日   東京フィルハーモニー交響楽団   オーチャードホール
指揮  アンドレア・バッティストーニ
ラヴェル   ダフニスとクロエ 第一組曲、第二組曲
ストラヴィンスキー   バレエ組曲火の鳥


東京フィルの2021新シーズンプログラムが発表された時、ツイッター上で、「1月の公演、楽しみ!!」というたくさんの書き込みを見かけた。
それは、「久しぶりにまたバッティストーニ指揮の演奏が聴ける!」という期待に加えて、「これらの曲をバッティストーニがやったら、きっといい演奏になるに違いない」というワクワク感、その二つがファンの思いの中で重なったからだと思う。

で、その期待を絶対に裏切らず、100%で応えるバッティ。

こちらがバッティストーニのタクトや音楽に対して抱くイメージ、「情熱」、「豪快」、「アグレッシブ」、「濃密」、「多彩」・・・。
本当にそういうイメージのままに音楽が展開、炸裂。
ゴージャスなサウンドカタルシスを生み出す一方、特にラヴェルにおいては、弱音にも焦点を当てて光の眩さを繊細に表現するなど、丁寧な音楽作りでも聴衆を魅了した。

オーケストラの東京フィルも、最大限の実力を発揮して、指揮者のリードに応えていたと思う。
東京フィルでこれほどまでにモチベーションが演奏に現れた演奏は、あまり記憶にない。彼らもまた、もしかしたらファン以上に、バッティストーニと一緒に演奏できるのを待ち侘び、その喜びを感じていたのだろう。

こうしたコラボレーションを目の当たりにして、バッティと東京フィルの関係は、コンサートの開催が厳しい環境下にある中、「新たなステップに入った」と思った。


外国人の入国規制が実施された中で、今月はバッティストーニ、インバル、ヴァイグレという、各オーケストラの重要なパートナーたちが指揮台に立つ公演が実現した。
奇跡的な月だったと思う。

この後、またしばらくは国内組で頑張っていくしかない。

イザベル・ファウスト

イザベル・ファウストが現代最高のヴァイオリニストの一人として、日本でもしっかり認知され、支持され、人気を得ているというのは、少々意外なことである。
というのも、彼女は人気ソリストに求められる華やかさ、輝かしい音色と高度な技術を見せつけるようなヴィルトゥオーゾタイプとは無縁のスタイルを貫いているからだ。

いるでしょ、全身を大きく動かして情熱的な演奏をする人。
イザベルはそういう派手なアクションにまったく関心がない。ホールいっぱいに鳴り響かせるような大きな音も目指していない。

アクション、弾き方には彼女なりのこだわりが垣間見えるが、それは、ひたすら適切な奏法であるか、という一点に絞られている。
演奏の志向が作品の内面に向かっているため、自ずと装飾的な部分が削ぎ落ちる。なんだか、その佇まいから、禅の修行者、侘び寂びの美意識みたいなものが感じられる。
いわば、通好みの演奏家

そういうタイプの演奏者が、日本でしっかりと支持され、人気を得ている、というのが、少々意外というわけである。

まさか、侘び寂びの美意識が日本人に相通じるものがあって、特別な親近感を呼ぶ演奏家、ということもないであろうが・・・。
素直に、日本の聴衆と評論家の耳が肥えている、と認めることにしましょうか。


彼女のそうしたスタイルは、古楽バロックの奏法研究の影響と見ることもできるかもしれない。

一方で、レパートリーの重要な柱の一つに、この日もプログラムに乗せたウェーベルンや、ベルク、シェーンベルクといった新ウィーン楽派が含まれるなど、先鋭的な切り口も併せ持っている。

単なる「世界最高のヴァイオリニストの一人」と位置づけるだけでは収まらない、独特の世界観を持つ孤高のヴァイオリニスト。それがイザベル・ファウストだ。

 

 

2021年1月23日   イザベル・ファウスト&アレクサンドル・メルニコフ デュオリサイタル   川口リリア音楽ホール
シューマン   ヴァイオリン・ソナタ第1番、第2番
ウェーベルン   ヴァイオリンとピアノのための4つの小品
ブラームス   クラリネットソナタ 変ホ長調(ヴァイオリン版)

2021/1/19 読響

2021年1月19日   読売日本交響楽団   サントリーホール
指揮   セバスティアン・ヴァイグレ
成田達輝(ヴァイオリン)
R・シュトラウス   交響詩マクベス
ハルトマン   葬送協奏曲
ヒンデミット   交響曲「画家マティス


午後2時の都響に続くダブルヘッダーで、池袋からアークヒルズへ移動。
マチネーのプログラムも良かったが、こちらの読響プロも最高!「この曲が演奏されるのなら、そりゃ何が何でも行かなくっちゃだわな」という、私にとってのキラーコンテンツが2曲も入っている。
交響詩マクベス」と交響曲「画家マティス」。
ハルトマンはまったく知らない曲だったが、ま、どうでもいい(笑)。とにかく「マクベス」と「画家マティス」なわけである。

私はシュトラウス・マニアであるから、滅多に演奏されない「マクベス」を聴けるのが嬉しくてたまらない。
ていうか、なぜこの曲が滅多にしか演奏されないマイナー作品なのか、まったく理解できない。
ドン・ファン」や「ツァラトゥストラ」、「死と変容」などがポピュラーとして受け入れられるのなら、「マクベス」だって全然オッケーのはず。

だから、とりあえず聴いてみなって。さあ。ほれ!?

どうよ? めっちゃカッコいいやん?
とにかく食わず嫌いはいかん。


読響の演奏も、これまためっちゃカッコいい。
ヴァイグレが颯爽としたタクトでオーケストラをかき回し、あたかも風雲急を告げるかのような緊迫した音楽を作り上げる。ドラマチックなサウンド
ヴァイグレ、オペラの叩き上げ指揮者ということで、こうした標題の付いた劇的な作品は得意中の得意なのかもしれない。

「画家マティス」もまったく同様。
ヒンデミットが構想を練ったという創作オペラの素材や断片が盛り込まれているとのことだし、各楽章にも標題が付いている。したがって、アプローチは共通だ。

指揮者の力強いタクトに導かれ、機動的な動きを見せるオーケストラの様は、まるで吹き付ける風をしっかり捉えてこれを推進力に変換する高性能ヨットのよう。
純度の高いハーモニーに支えられた金管楽器グロリアスな響きは、実に陶酔的だ。

間に挟まれたハルトマンの作品は、「葬送」というタイトルのとおり、前後2曲から一転して悲劇性が強調され、まさに絶叫といった響き。作品に込められた悲痛なメッセージが、狂しいほどに心に迫る。


今回のプログラムについては、どうやら背景にある作曲家とナチスとの関連性をキーワードにして並べた、という見立てがあるようだ。

なるほど、それは確かにそういうことなのかもしれない。
だが私は上記のとおり、「標題」というテーマに基づいた音楽のドラマ化という部分に、今回のヴァイグレの音楽作りのベースや軸を見い出せたような気がする。