クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2020/11/3 鈴木優人プロデュース 「リナルド」

2020年11月3日   鈴木優人プロデュース  BCJオペラシリーズ   東京オペラシティコンサートホール
ヘンデル  リナルド
指揮・チェンバロ  鈴木優人
演出  砂川真緒(ドラマトゥルク 菅尾友)
管弦楽  バッハ・コレギウム・ジャパン
藤木大地(リナルド)、森麻季(アルミレーナ)、中江早希(アルミーダ)、久保法之(ゴッフレード)、青木洋也(エウスタツィオ)、波多野睦美(魔法使い)、大西宇宙(アルガンテ)  他


普通のコンサート形式上演かと思ったら・・・びっくり。これ、フツーにオペラじゃんか!
欧州で活躍中の演出家菅尾氏にドラマトゥルクを依頼するなど、演出チームを立ち上げ、即席ステージを設け、出演者には演出プランに基づいた衣装を着せ、演技を施し、照明や小道具を効果的に使用して・・・。
うん、これ、間違いなくオペラだ。単に上演場所がコンサートホールだっただけ。
しかも、会場のロビーには、あちこちに観客が舞台設定に入り込めるような仕掛け(張り紙)を行う念の入れ様。

主人公のリナウドをフィギュア収集に凝る現代のオタク青年に仕立て、自宅に籠もってRPG(ロールプレイングゲーム)に夢中になりながら、フィギュアとして愛でているお姫様アルミレーナを救出する作戦の夢想が広がっていく、という演出ストーリー。

めっちゃ面白ぇじゃん!!


ここでついつい思い返してしまうのは、その前に観た野田さん演出の「庭師は見た!」。
(比較は申し訳ないが、わずか二日前の公演なんでね)
両方ともコンサートホールでのオペラで、演出を施し、しかも思い切った読替えを実践していたわけだが、リナルドが決定的に勝っていたことがあった。

それは、「上演の軸足が完全に音楽にあった」ということだ。

あくまでもヘンデルの音楽で勝負しているということ。見た目だけでも十分に楽しかったが、仮に見た目を排除したとしても、聴衆はヘンデルの音楽を十分に堪能することができたのだ。

まさにそこに、指揮者が成し遂げたことが現れている。
これを「指揮者の存在価値」と言い換えてもいい。

指揮者だけではない。歌手たちの真摯な取組みにも目をみはるものがあった。
各歌手のそれぞれの歌唱の中に役に対する思い入れが込められているし、旋律の鳴らせ方、節の回し方(アドリブのように自由に展開させていくテクニック)に、しっかりとした研究の跡が見えた。演技と歌唱の両面で役を突き止めよう、物にしようという姿勢が感じられ、それがひしひしと伝わり、素晴らしかった。


今回のリナルドを観て、私は、かつて積極的にバロックオペラをレパートリーに採用し上演していたP・ジョナス体制時代のバイエルン州立歌劇場を思い出した。
古楽の得意な指揮者I・ボルトンと組んでバロック特有の様式美にこだわりを見せつつ、演出的には読替え手法で現代の視点を採り入れる。古と新の融合。そしてルネッサンスの完成。

今回プロデュースした鈴木さんの狙いも、まさにそこにあったのではないか。

BCJのオペラシリーズは、今回がVol.2。これからも是非、我々にバロックオペラの楽しさを教えてもらいたい。

 

2020/11/1 フィガロの結婚 ~庭師は見た!~

2020年11月1日   フィガロの結婚 ~庭師は見た!~  東京芸術劇場シアターオペラ
モーツァルト   フィガロの結婚
指揮  井上道義
演出  野田秀樹
管弦楽  ザ・オペラ・バンド
ヴィタリー・ユシュマノフ(アルマヴィーヴァ伯爵)、ドルニオク綾乃(伯爵夫人)、小林沙羅(スザ女)、大山大輔(フィガ郎)、村松稔之(ケルビーノ)、森山京子(マルチェ里奈)、三戸大久(バルト郎)、黒田大介(走り男)    他


「やっぱ、行かなければ良かったよな」という思いに駆られた残念な公演。

もっとも、そうなることは何となく分かっていたけどさ。多分そういう感想になるんじゃないかと、想像していたんだ。

公演タイトルに「庭師は見た!」というのがくっ付いた、国内で有名な演出家野田秀樹の演出版。
アルマヴィーヴァの伯爵夫婦とケルビーノが幕末の日本・長崎に黒船に乗ってやってきて・・・・なんて前フリがある時点で、「あー、これはもうモーツァルトのオペラじゃなくて、モーツァルトの音楽を利用した野田の演劇だな」というのは、最初からはっきり見えていた。
ユーモア、夢と笑いと、ちょっぴりの皮肉が混じったドタバタ喜劇。
ジャンルで言えば、エンタメ。

いっそのこと、とことん割り切って楽しんでしまえば、どれほど良かったことか。どれほど楽だったことか。
だが、残念ながら、クラシックマニアであり、音楽に真剣に対峙しようと肩肘張る私は、楽しむことが出来ない。
多くの観客が、観終わって「面白かったね~!」と語り合いながら会場を後にしたというのに・・・。


楽しめなかった理由。
まず、純粋に演奏のレベルが低い。
そりゃそうだ。そもそも主催側が、あるいは指揮者の井上が、オペラの本格上演に相応しいレベル、本公演に究極のモーツァルト演奏を求めていないのだから。なんたって、エンタメだからね。

次に、一部の歌手(役柄で、スザン女、フィガ郎などと設定した日本人)の日本語訳詞による歌唱の、どうしようもない違和感。

本公演に限らず、私は日本語訳詞上演が嫌いだ。
なぜなら、日本語に訳して当てはめるその無理矢理感が、何だかクサくて、何だかダサくて、聴いていて気持ち悪くなるから。

オペラは、当たり前だが、作曲家がイタリア語やドイツ語といったオリジナル原語の発音や歌いまわしを想定しながら、セリフに音楽を当てている。
それを日本語に当て直すと、イントネーションは狂うし、無理矢理感が漂うのは、そりゃもう必然の成り行き。
それに、日本語の歌は「一つの音符に一字を当てるのが基本」の構造のため、一つの音符や音型に単語や文節を上手く載せていく欧米のソングと比べ、流暢さ、スムーズさにおいて決定的に劣ってしまうのである。

野田の演出は、上で述べたとおり、エンタメと割り切って見れば確かに面白かったし、幕末の長崎を舞台にしたという着眼点も良い。
だが、「庭師は見た!」と言っておきながら、庭師アントニオは狂言回ししているだけで、全然物語のキーパーソンになっていない。だから「何見たんだよ?」と突っ込みたくなる。
(ケルビーノが二階から落ちてきたのを見た、というだけなら、そんなの演出家がクローズアップするまでもなく、最初から物語に入っている。)


以上、色々と「がっかりなこと」を述べてきたが、こうした公演自体を否定しようとは思わない。会場に駆けつけた人たちは、野田の名前に惹かれた演劇ファンが多かったと思う。そういう人たちが「ああ、オペラって面白いね。また観たいね。」と思ってくれたのなら、それは一つの成功だ。

それに、思った。
今でこそクラシックやオペラは高尚(?)扱いだが、作曲された当時は、もしかしたらエンタメそのものだったのかもしれない、と。(支えていたのは、大衆ではなく上流貴族だったかもしれないが)
つまり、元々オペラなんてこんなもの。何も考えずに「ああ、面白いね」で終わっても、全然オッケーというわけだ。
だいいち、この上演をモーツァルト自身が鑑賞したら、きっと腹を抱えて笑ったことだろう。


要するに、頭を抱え、楽しむことが出来なかった私は、偏屈者だったということで。

ウィーン・フィルがやってくる

ウィーン・フィルの来日が決まった。
いやぁー・・・。
マジか。

チャーター機で来るんだと。
来日滞在中はホテルと公演会場の往復のみで、それ以外は籠もるんだと。
都市間の移動は、バスや新幹線を貸し切るんだと。

いやぁー・・・。
マジか。

普通なら認められないか、あるいは入国後14日間の隔離措置という条件を呑むか、いずれにしても「そりゃ無理でしょ」となるところ、困難な障壁を乗り越えたわけで、これは「関係者の尽力」みたいなものを越えて、「高度な政治判断」が働いたとしか思えんわな。
なんたって、招聘は呼び屋のK社でもJ社でもなく、天下の一流企業サントリーだからね(笑)。

泣く泣く来日を断念した人たち(クラシック界だけでなく、あらゆる業界の人を含む)からすれば、「そういう特別扱いは反則だろ?」となるだろう。

ポイントは、やっぱり来年の東京オリンピックなんだと思う。
特別扱いではなく、「海外から団体を受け入れるための一つのテスト」なのだと位置づければ、合点がいくし、批判をかわすこともできる。

いずれにしても、クラシックファンの私としては、こんな嬉しいことはない。チケットはもちろん購入済だ。(1公演のみだけど。)

おそらく関係者は「絶対に感染を起こさず、成功させる」と意気込んでいるだろうし、ウィーン・フィルの皆さんたちも、きっと特別の感慨を持って来てくれるだろう。
日本の聴衆、愛好家たちだって、会場に足を踏み入れた時、同様に特別な感慨を抱くに違いない。

2011年4月、東日本大震災のチャリティーコンサートとして行われたメータ指揮N響の第9公演がそうだったように、今年のウィーン・フィル来日公演が末永く語り継がれる「特別なイベント」になることを祈念し、その時を待とうと思う。

新型コロナウィルスの影響6

今年の春以降、予定していたコンサートや海外遠征が次々と中止になり、ブログネタが無くなってしまったことから、その代わりということで、随分と昔の旅行記をいくつか書いてきた。
Nくんとのウィーン旅行記が無事に完結したところで、「過去の旅行記シリーズ」は、ここでいったんひと休憩させていただこうと思う。再開は未定。書きたい気分になったら、また書きます(笑)。
ただ、「これは是非紹介したいなあ」というのは、だんだんと残り少なくなりつつある。

なぜひと休憩かというと、お気付きの方も多いと思うが、国内において、徐々にコンサートに行けるようになってきたからだ。
3月から8月までの半年間で計たったの4回しか行けなかったコンサート・オペラは、9月5回、10月4回という回復基調に乗り、来月は、なんと現時点で9回の公演の予定が入っているのだ。
驚き。回数だけで言えば、完全復調にほぼ近づきつつある。

コロナ情勢に関しては、要警戒状態は続き、予断を許さない状況に変わりはない。
とはいえ、そうした中でも、国内のオーケストラなど各主催団体は、公演開催の実現に向けて懸命に努力しているわけである。
特に、開催が最も困難と思われていた二期会新国立劇場などのオペラが、上演の実現に漕ぎ着けているのは、本当に素晴らしい。
海外からのキャストを迎えることが出来ないが(と言いつつ、新国立劇場の来月の新作プレミエには、既に海外キャストが来日中!)、逆にこうした機会を捉えて、日本人アーティストの実力をここぞとばかりに見せつけていただきたいものだ。

「甘い」との御指摘を頂戴するかもしれないが、私自身はクラシックのコンサートに出かけることについて、感染恐怖をほとんど覚えない。
だって、客席ではみんな静かに黙って聴いているわけだし。
ただし、油断してロビーで談笑している連中には、なるべく近寄らないように気を付けている。


あとは、外来公演の実現再開がどうなるか。もっぱらの関心はこれ一点に尽きる。

普通に考えれば、まだまだ遠い道のりと言えるだろう。
ところが、来月に予定されているウィーン・フィル公演については、未だに「中止」の発表がなく、それどころか「公演実現に向けなお調整中」とのことで、一般発売の再開まで始めた。

いやいや、無理でしょう。
と思いつつ、密かに「来てくれたら嬉しいな」なんて期待しているのだが・・・。

もしウィーン・フィルの来日が決定したら、そのニュースのインパクトは絶大だ。
「日本は安全」という感染対策の成功例を世界に堂々アピールするビッグチャンスかもしれない。
そういうわけだから、諦めずに最後まで調整を続けているんだろうな。

いずれにしても、外来公演が以前のように日常的になるのはまだ先で、それまでは忍耐が必要だ。

年末恒例の第9はどうなるんですかねえ・・・。
ま、私の場合、年末第9は例年どうでもいいと思っているので、さしたる影響はないのだが。


あと残る問題は海外遠征だけど、これはもっともっと厳しいね。
今、欧米は第二波の真っ只中。どうしようもない状態。

欧米というのは、こうした御時世において、つくづく厄介な国々である。
これだけのパンデミックになっているのに、自由と権利、主義主張を盾にして、社会ルールに従おうとしない人たちが必ずいる。
さらに、コンサート会場や劇場はジジババの社交の場であり、いつクラスター発生がしてもおかしくない。

まあそういうわけで、当分の間、海外は諦めているわけだが、それでも「いつか! きっといつか!」という想いを馳せながら、日々を過ごしていくわけだ。
もうしばらく頑張りましょう。

2020/10/18 神奈川県民ホール・オペラ トゥーランドット

2020年10月18日   神奈川県民ホール・オペラ
プッチーニ  トゥーランドット
指揮  佐藤正浩
演出・振付  大島早紀子
管弦楽  神奈川フィルハーモニー管弦楽団
合唱  二期会合唱団、赤い靴ジュニアコーラス
ダンス  H・アール・カオス(メインダンサー:白河直子)
岡田昌子(トゥーランドット)、デニス・ビシュニャ(ティムール)、芹澤佳通(カラフ)、砂川涼子(リュー)、大川博(ピン)、大川信之(パン)、糸賀修平(ポン)   他


何とも言えない当惑だ。
以前から私は「日本では、本格的なコンサートを鑑賞する機会は多々あるが、本格的なオペラを鑑賞する機会はほとんどない」と嘆き、不満ブー垂れていたわけである。
そんなわけだから、「ふん、いいさ。だったら、海外に行って本場のオペラを観るさ。」なんてほざいていたわけである。

だというのに、今はどうだ。
欧米は第二波、第三波の真っ只中。劇場の閉鎖、公演の中止や延期が相次ぎ、困難な状況が続いている。一部、公演を催行している劇場もあるが、行った先や帰国後における自主隔離問題等もあり、とてもじゃないが行けない。

翻って日本では、困難な状況は同様に存在しつつも、9月に二期会で「フィデリオ」、今月は新国立で「真夏の夜の夢」、そして本公演「トゥーランドット」と、2か月で3つのオペラの本格上演鑑賞が実現しているのである。

これは本当にすごいこと。
公演開催実現に向けた関係者の方々の並々ならぬ努力に加え、感染対策における国民一人一人の地道な取組みが功を奏しているわけだ。
日本もまだまだ捨てたもんじゃない。


さて、今回の「トゥーランドット」である。
演出を担当した大島さんは、コロナ禍の中、重い課題に直面し、頭を抱え、御苦労されたことと思う。
「ソーシャル・ディスタンスをどう確保するか」なんていうのは、単なる技術的な問題。
問われているのは、「この状況下において上演する意味、意義」であり、「人々にとって大切な物は何なのか」、「このオペラの上演で、人々に何を届けられるのか」というのを見つけ出すこと。

配布されたプログラムには、そうしたことに思いを馳せつつ、大島さんがこの作品から何が読み取れたのか、御本人の見解が掲載されていた。

曰く、『3つの謎、「希望」、「血潮」、「トゥーランドット=愛」こそ、今まさにこの世界で必要とされている物。リューの自己犠牲が「愛」を教え、人生に対しての肯定「希望」を取り戻させ、自己の内部からの生命力「血潮」を湧き出させた。』

なるほど、素晴らしい解釈ではないか。

以上のとおり作品の中からメッセージを汲み取ったのであれば、あとはそれをいかに舞台に落とし込んでいくかという作業になる。
落とし込みの仕方や手段に関しては、大きな苦労はなかったはずだ。自ら率いる舞踏集団「H・アール・カオス」を用いてどのような形に表現するか、そこだけに専念すれば良いのだから。
引き出しは十分備わっている。これまでの実績が大いに物を言うわけだ。

いつものとおり、ロープ(ワイヤー)を使ったアクロバティックな舞踏が生み出す躍動感が半端ない。力強く、自由自在で、舞台空間に無限の奥行きと可能性を漂わせる。

観客は、そのスペクタクル性に単純に驚嘆し、圧倒される。目が釘付けになりながら、閉塞感溢れる今の状況を一時だけでも忘れ、演出家の狙いのとおり、舞台から「希望」を感じ取ることが出来た。
私自身も、「舞台芸術とは、人間が人間らしく生きるための糧」なのだということを、改めて認識することが出来た。

つまり、「この状況下において上演する意味、意義」は、十分に伝わったということだ。


歌手では、タイトルロールの岡田さんにとても感心した。
決して大きい声ではなく、強靭さが前面に出るタイプではないが、声に芯があり、光線のような輝きがあって、ストレートに心に響いてきた。立ち振舞も凛として美しく、冷酷な氷のお姫様から愛に目覚めていく過程の繊細な表現力も見事。

リュー役の砂川さんも素晴らしかった。ただ、リューのアリアは、いつでもどこでも誰が歌っても心に染み入る。なので、持ち上げる際は、若干その部分は差し引くこととしよう。
カラフ役の芹澤さんは、演技も含め、やや荒削りのように感じたが、将来性は感じられた。もう少し熟成を待ちたいと思う。

音楽全体を束ねた指揮の佐藤氏も、立体的な音響を構築させ、この音楽の醍醐味を存分に聴かせてくれた。


以上のとおり、上演そのものは大成功に導かれた。
だというのに、カーテンコールで、ダンサー、歌手、指揮者、演出家に対し、盛大なブラヴォーの掛け声を贈ることが出来ないのは、とにかく残念としか言いようがない。
寂しい。寂しすぎる・・・。

2020/10/16 読響

2020年10月16日   読売日本交響楽団   サントリーホール
指揮  秋山和慶
神尾真由子(ヴァイオリン)
レスピーギ  組曲「鳥」
プロコフィエフ  ヴァイオリン協奏曲第1番
レーガー  モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ


この日のハイライトは神尾さんのプロコのコンチェルト。
私が本公演を聴きに行こうと思ったのも、このコンチェルトがプログラムにあったからで、そういう意味で「行って良かった」という満足感に大いに浸ることが出来た。

神尾さんのヴァイオリンは、毎回聴いて思うことだが、スケールが大きく、燃焼度が高い。
このプロコも、とにかく積極果敢で激しい。
「激しい」と言えば、たいていの演奏では、強い箇所、大きくうねる箇所で打ち出す感じだが、彼女の場合、弱音のか細い箇所でもアグレッシブで、激しさが伝わってくるのがすごい。
第1楽章冒頭の旋律は本当にゾクゾクした。「弱音なのに迫力が備わる」という強烈なインパクトだった。


このプロコのコンチェルトは、ソリストの演奏もさることながら、オーケストラの各パートがソロと掛け合いを演じ、その絶妙なブレンド感を堪能することが出来る素晴らしい作品だ。
録音で聴くのももちろんいいが、是非生のコンサートで、ステージ上で起こっている神々しい現象を体験すべきだと私は思う。

協奏曲というのはソロ奏者が主役であり、ソロの演奏に目も耳も釘付けになるのが普通である。
ところが、このプロコに関しては、私は必ずいつも、次々とヴァイオリンと掛け合いを演じるフルート、クラリネットファゴット、ハープなどの各パートの奏者たちをじっと注視するようにしている。
すると、各パート(今回で言えば、読響の精鋭なる奏者たち)が、いかに自分の音色をソロのヴァイオリンにブレンドさせつつ、ヴァイオリンを引き立たせようとしているか、そうした真剣なアプローチが手に取るように分かる。

彼らは単なる伴奏役ではない。ソロ奏者と一緒になり、一体化して、作品を輝かせようと最大限の貢献をしようとしているのだ。

協奏曲というのは、まさに文字どおり「協奏」。
それを最も分かりやすく聴かせてくれる稀有な作品、それがプロコのヴァイオリンコンチェルト。


この日、レスピーギとレーガーについても、聴いて感じたことが当然あったが、鑑賞記としては、以上、プロコのコンチェルトについて大いに語ったところで、締めさせていただこうと思う。

1997/9/16 フィガロの結婚

1997年9月16日  パリ・オペラ座   バスティーユ劇場
モーツァルト   フィガロの結婚
指揮  ジェームズ・コンロン
演出  ジョルジョ・ストレーレル
アンソニー・マイケルズ・ムーア(アルマヴィーヴァ伯爵)、ソイレ・イゾコスキ(伯爵夫人)、バーバラ・ボニー(スザンナ)、イルデブランド・ダルカンジェロフィガロ)、シャルロッテ・ヘレカン(ケルビーノ)、デッラ・ジョーンズ(マルチェリーナ)、クリスティン・ジグムントソン(バルトロ)   他


本公演の着目ポイントは、演出のストレーレル。
音楽第一主義で、音楽を考慮しない(考慮できない)演出家を厳しく一刀両断にする指揮者リッカルド・ムーティが、ストレーレルを「偉大な演出家」と持ち上げている。
ということは、ストレーレルは、音楽を理解し、音楽に寄り添いながら、それを昇華させることが出来た演出家ということだろう。マエストロが絶賛するのだから、間違いない。

そのマエストロは、まだスカラ座音楽監督に就任する前の1981年、同歌劇場でストレーレル演出の「フィガロの結婚」プレミエを任されている。
ムーティのタクトによって幕が開いたこの舞台は、その後長きに渡ってロングランが続き、スカラ座の看板プロダクションへと育っていく。スカラ座フィガロと言えばストレーレル版。ウィーン国立歌劇場のポネル演出と並び、「フィガロの結婚」の決定版になったのだ。
映像も収録されていて、DVDやブルーレイで視聴することが出来るし、You Tubeで検索すると、ムーティが指揮した貴重な初演時の映像も見つけることが出来る。

ならば、スカラ座のプロダクションがオリジナルで、後にパリに貸し出されたのかと思い込んでしまいそうだが、実を言うと、さにあらず。

何を隠そう、パリでストレーレル演出の「フィガロ」がプレミエとしてお目見えしたのは、ミラノより更に遡る1972年なのだ。これ、驚きの知られざる事実。

まあ、別にどっちが本家本元なのかということは、この際どうでもいい。大した問題ではない。
ストレーレル演出の「フィガロの結婚」が観られた。
それが、私にとって重要なマターだったということだ。

それでは、この時の舞台を思い起こしてみよう。
舞台装置は非常にシンプルで、白っぽさを基調にしていた。衣装は当然トラディショナル。あっと驚く仕掛けや舞台転換でスペクタクル性を求めるのではなく、人物の動作ときめ細やかなポーズで、物語を展開させていく。確か、全幕を通して「箱のような部屋の中の出来事」にしていたと記憶する。
意味深なこと、訳が分からないことは、決して起こらない。登場人物は生き生きと動き、隙きがなく、音楽と一体となって輝いている。

私は「ああ、これがムーティが絶賛するストレーレルの舞台なんだな」としみじみ思いながら、心地よいモーツァルトの調べにどっぷりと浸かった。

ただし。
もし、今現在私がこの舞台を観たら、果たしてどのように感じるのだろうか・・・。

今の私は、近年の先端演出家にかなり感化されちゃっている。「演出家の仕事とは、新たな視点の発見であり、想像の展開を可能にするアイデアの提示である」と考えるようになっているわけ。

もちろん、舞台の中に「ストレーレルのこだわり」みたいな物が見つかれば、きっと私はそれだけで十分満足すると思うが・・・。


歌手について。
フィガロとアルマヴィーヴァ伯爵の両役で世界中を席巻し、一流歌劇場で引っ張りだこの「イタリアの伊達男」ダルカンジェロ
数えてみたら、私はこれまでに彼の出演オペラを計13回鑑賞しているが、「初めて」は本公演であった。
「演技が上手い歌手だな」と思った記憶が残っているが、歌唱についてはあまり覚えていない。
いずれにしても、まさか現在のような押しも押されもせぬスター歌手になるとは、この時まったく想像もしなかった。

ダルカンジェロがつくづく賢いと思うのは、これほどの不動の地位を築き、セクシーな容姿を携えれば、色気付いてヴェルディのバス・バリトン諸役に飛び付いてもおかしくないはずなのに、一貫してモーツァルトを軸に据えている点だ。
私だって個人的にはルーナ伯爵とかロドリーゴとか、聴いてみたい気がするが、彼の頑なな基本姿勢については、しっかりと支持しようと思う。

昨年のロイヤル・オペラ・ハウス来日公演で披露したメフィストフェレスは、もしかしたら彼のステップアップの転換点だったかもしれないが、これについてはもう少し動向を注視することとしよう。

スザンナのボニーも、とても良かった。とにかくチャーミングで、私がこれまでに聴いた数々のスザンナの中でもベストと言ってもいいかもしれない。


指揮のコンロン。
ちょうどこの2年前の1995年にパリ・オペラ座音楽監督に就任。それまでロッテルダム・フィルやケルン市立歌劇場の監督などの経歴を持っていたが、正直、「天下のパリ・オペラ座で、何故コンロン?」みたいな感じは否めない。

考えてみれば、前任のチョン・ミョンフンだって、選ばれた時は「チョンって何者?」と囁かれた。だから「サプライズ抜擢」はパリ・オペラ座の得意技なのかもしれない。
ていうか、バレンボイムの招聘失敗で、大物にすっかり懲りちゃった、怖気づいちゃったというのが真相かも?(笑)。

で、そのコンロンのタクトのフィガロだが・・・全然覚えてません(笑)。
スンマセン。


1997年9月の旅行記、おしまい。