クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2020/9/8 読響

2020年9月8日   読売日本交響楽団   サントリーホール
指揮  尾高忠明
小曽根真(ピアノ)
G・ウィリアムズ   海のスケッチ
モーツァルト   ピアノ協奏曲第23番
ペルト   フェスティーナ・レンテ
オネゲル   交響曲第2番


2月のムターのリサイタル以来、半年以上ぶりのサントリーホール

コロナの影響で楽しみにしていた公演が中止になったり、プログラムが変更になったりして、がっかりすることがある一方で、プログラム変更のおかげで逆に魅力的な公演に様変わりし、思わぬ拾い物となることがある。
先日の東京シティ・フィルの公演がそうだった。今回もそう。

本公演の元々のメインプロはウォルトン交響曲だったが、日頃から機会あれば聴きたいと思っているオネゲル交響曲に替わったというのは、わたし的には嬉しい。
それだけではなく、プログラムの再編にあたり、元々にあった弦楽合奏曲「海のスケッチ」を繋ぎ発展させていく形で、同じく弦楽合奏をベースとするペルト作品とオネゲル作品を並べるという采配の仕方が、本当に粋。指揮者尾高さんの見識とセンスがとにかく光る。

大規模編成作品の演奏が困難となる中、密を避けるためのアイデアとして、弦楽合奏曲は一つの選択肢と言えるが、実は、脚光浴びるべき珠玉の名曲がたくさんある。

多くの人に知られているのは、例えばチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」やシェーンベルクの「浄夜」などだろう。
もっとライトに広げれば、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」やヴィヴァルディの「四季」なども挙げられよう。
私だったら、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」、レスピーギの「リュートのための古代舞曲アリア第三組曲」、ブリテンの「シンプル・シンフォニー」、ベルクの「叙情組曲」などはカウントしたいし、何と言ってもR・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」は、すべての管弦楽曲の中で第1位をあげてもいいくらい好きな作品だ。

また、純粋な弦楽合奏作品ではないが、マーラーブルックナー交響曲アダージョ楽章が眩いくらいの神々しさを放つ時、弦楽器のしっとりとした泡立ちと香りが心を揺り動かす渦の源となっているのは、誰もが理解するところだろう。

そういうわけだから、コロナ禍の中のやむを得ない措置ではなく、楽団員の出番の問題は別にして、もっと弦楽合奏曲を積極的に採り上げてほしいと、心からそう思うわけである。


さて、ウィリアムズの作品は今回初めて聴いたが、素敵な曲だった。「海のスケッチ」というタイトルが付けられているとおり、確かに海の景色が目に浮かぶようだった。
ただ、面白いのは、その情景はどこか寂寥感が漂う雰囲気で、しかも我々が思い浮かべる日本海の荒々しいイメージともまた異なる。どちらかと言えば、ブリテンの「ピーター・グライムズ」の寂れた世界がしっくり来る。
そこらへんはやっぱり北海や大西洋を眺めているイギリス人作曲家(※正確にはウェールズ人)の独特の感覚なのだろう。

モーツァルトのコンチェルトは、一転して小曽根さんらしい弾けた演奏。
クラシックの枠にきちんと当てはめようとしながらも、その枠の範囲内でどこまで「遊び」を散りばめられるか、それに勝負をかけているみたいな意気込みが、なんとも愉快。

そんな小曽根さんを見ていて、ふと思った。
モーツァルトって、小曽根さんみたいな人だったんじゃないか、と。
才能はあるけど、どこか異端児で、やんちゃで、枠に収まらなくて、溢れてしまった才能でつい遊びに走っちゃう、みたいな。
コンチェルトも良かったけど、アンコールのジャズは最高だった。これぞ本業の真骨頂なり。

メインのオネゲルは、指揮者尾高さんが広げる裾野と、そこに飛び込んでいこうとオケを引っ張るリーダー日下さんの突き進み具合が絶品ナイスだった。この二人のおかげで、粒立った音が光彩を放ち、圧倒的な熱量を生み出していた。

一つだけ残念だったのは、個々の奏者の間隔を開けていることで、時々音が塊になりきれず、霧散してしまう。
なるほど、物理的な問題というのは、結構正直に音に跳ね返ってしまうのだなと痛感。

2020/9/5 二期会 フィデリオ

2020年9月5日   二期会   会場:新国立劇場
ベートーヴェン   フィデリオ
指揮  大植英次
演出  深作健太
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団
合唱  二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部
黒田博(ドン・フェルナンド)、大沼徹(ドン・ピツァロ)、福井敬(フロレスタン)、土屋優子(レオノーレ)、妻屋秀和(ロッコ)、冨平安希子(マルツェリーネ)、松原友(ヤッキーノ)   他


意見や好みが分かれるであろう演出であった。
まあ、好みについてはどうでもいいとして、意見が分かれることについては、深作さんからしてみれば想定の範囲内だろう。
それを先刻承知の上で、そこから逃げようとせず、自らの洞察について正々堂々と主張した。
その信念と潔さについては、私は深く尊敬の意を表するものである。なぜならそれこそが演出家の仕事だと思うからだ。

だが、結果に対する私の意見としては、主張の展開のさせ方について、少々無理があったのではないかと感じた。

着眼点は素晴らしかったし、その見識についても目を見張るものがあった。相当に難しい課題に向き合い、チャレンジしたことも、率直に評価しなければならないだろう。

深作さんは、作品の中に潜む「自由への讃歌、希求」というテーマから、「壁」というモチーフに辿り着いた。
そのヒントが、ベルリンの壁が崩壊したことで催されたバーンスタイン指揮による第9コンサートにあることは明白。その時バーンスタインは、歌詞にあった「喜びFreude」を、「自由Freiheit」に変更して歌わせた。

ここで彼は、「壁とは、歴史の断片において常に人類の分断の象徴である」と見極めた。

そこまではいい。
いいどころか、非常に卓越した知見である。

ところが、分断を乗り越えるための人類の闘争の歴史にまで話を及ばせようとし、それを紗幕に映像を投射させて一つ一つ辿り始めた瞬間から、あたかも教科書のページをめくっているかのように説明的になり、単なる網羅となり、表面的で浅薄になってしまった。

アウシュヴィッツ、東西冷戦とベルリンの壁イスラエルパレスチナ問題、イスラム過激派によるテロリズム・・・・
なるほど、確かにどれもが、分断の歴史そのものだ。
だが、その一つ一つに重みがありすぎる。このため、連続的、包括的にまとめるのは難しい。そこに、宗教、民族、政治、アイデンティティやプライド、パワーバランスが絡む。あまりにも複雑なマターなのだ。
つまり、「分断の象徴と連鎖」と単純に要約し切れないメカニズムが各々に存在しているということだ。

それを「壁を巡る人類の闘争」を歴史として時系列に並べて俯瞰したことで、このフィデリオというオペラにいったい何を残すことが出来たのか?

正直に言って、物語と音楽が置き去りにされたとしか言いようがない。

あくまでも個人的な見解だが、いっそのことアウシュヴィッツ問題と東西冷戦によるベルリンの壁問題だけに絞った方が良かったのではないかと思う。
これらは、フィデリオという作品に内在するテーマとして、フィットする。「Arbeit macht frei」と「Freiheit」は、表裏一体として緊密に結びつく。

そうやって特化した問題をテーマとして掲げたら、あとはそれを説明するのではなく、提示、あるいは暗示して、観た人に考えさせる。
現代において「分断」がどのような意味を持つのか。
「それは我々現代人が直面している課題であり、深く考えるべき問題だ」と、投げ掛けさえすればいいのだ。

そういうわけだから、御親切に紗幕に説明文を入れる必要もない。それを入れてしまうというのが、何だかいかにも“この国”的だ。

日本人は分からない時、安直に答えを求めたがる。オペラでも、分からない演出に対して「そういうのはけしからん」と不満を述べ、否定する。

要するに、考えさせられるのが嫌だし、苦手なのだ。
だから、演出には「すっきり」を求める。
深作さんは、前回ローエングリンを演出した際、「よく分からなかった」という意見を多くもらったらしい。今回、そうした意見を汲み取ったわけだ。

だが、私は個人的に反対だ。
観客には考える力がある。その力を信じてほしいし、信じるべきだ。考えようとしない怠慢なヤツらの意見なんかに、耳を貸す必要はない。

ヨーロッパでは、近年、単なる読み替えから、そうした「考えさせようとする演出」が主流になりつつある。
映画だって、最近はそういう傾向が見られる。「善か悪か」の単純図式を好むハリウッドにしても「ジョーカー」を製作した。日本の是枝監督の作品もそうだ。

「オペラは音楽を聴く場であって、演出を考える場ではない」という意見は、私も十分承知しているし、否定をしない。
だから、そうした傾向を「絶対に正しい」と断じるつもりはない。

でも、様々な考えの中の「一つのあり方」だとは思う。


歌手について。
このブログで二期会公演の鑑賞記事を書く時、歌手について「いわゆる日本人という枠の中で『よく出来ました』というレベル」といった言い回しを、これまでに何回か使っている。
わざと遠回しに言っているわけだが、そこにはもちろん「世界レベルにおいて、全然物足りない」という意味が含まれていることは、誰もが容易に分かるだろう。

今回も、申し訳ないが、そういうことだ。

個々の歌唱において、評価できる部分は確かに見受けられる。
でも、全体として、手放しで称賛することは出来ない。

この日舞台に立った彼らのほとんどは、世界的に進境著しいお隣の国のカンパニーに行ったら、主役を張ることが出来ない。日本のトップテノール福井さんとて例外ではない。残念ながらそのレベルなのだ。そのことは、明確に位置付けて知っておく必要がある。


以上、いつものように、かつてのように、容赦ない辛口持論を展開させてしまったが、このコロナ禍のさなかで最大の「壁」(いちおう上の演出のテーマと引っ掛けたつもり)であるオペラ上演を開催にまで運んでいったのは、本当に画期的なことである。主催者、関係者の尽力に心から敬意を表したいし、感謝したい。よくぞここまで漕ぎ着けてくれました。

大きな声を出して歌うという行為は、エアロゾルの問題、飛沫感染対策という点で、非常に苦しい。オーケストラ公演とは警戒レベルの次元が異なる。

まだまだ課題は山積だが、とにかく万全を期した上で、少しずつ着実に道を歩んでいってほしいものだ。

1997/9/12 ウィーン1

初めてウィーンを訪れた時は、私も心が躍ったものだ。
ここはクラシックファンにとって聖都。1988年8月のOくんとのスイス・オーストリア旅行記で書いたとおり、モーツァルトシューベルトベートーヴェンマーラーなど偉大なる芸術家たちが拠点にし、活躍した街だ。旧市街の狭い路地を歩いていると、彼らがヒョイと登場してきそうな錯覚に陥る。
更に、町並みや建物に目を向ければ、由緒あるハプスブルク家の帝都を偲ばせる歴史と伝統の重厚な佇まい。訪れた者は圧倒される。

滞在ホテルの場所がウィーン市庁舎の裏側付近だったこともあり、ここからリンク通り沿いを時計反対回りに散策を開始した。
ブルク劇場、国会議事堂、フォルクスガーデン、美術史美術館、モーツァルト記念像、ゲーテ像・・・次から次へと見どころが現れる。Nくんは、そうした行く先々で「うわー!」「うわー!」と感嘆のため息を付いている(笑)。

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初の海外だしねえ・・・。そりゃ楽しいわなあ。わかるよ、うんうん。
でも、これだけ感激してくれると、一緒に回っていてこっちも嬉しくなる。

国立歌劇場シュターツオーパーの前にやってきた。
ここですよ、ここ。我々がはるばる目指してやって来たのは。感慨深い。

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二人して建物を見上げていると、そこでNくんが声を掛けられた。昔の伝統衣装にかつらをかぶり、まるでモーツァルトのような装いの連中。
気を付けろ。奴らは観光客に次から次へと声を掛け、「モーツァルトやウィンナ・ワルツなどのコンサートはいかがですか?」と言葉巧みにチケットを売りつけようとするセールス屋。「音楽の都」に憧れてやって来た観光客の浮かれた気持ちに付け入る商売。Nくんはこれに捕まってしまったというわけだ。

この場合、無視するというのが一番いいと思う。でもNくんはいい人なのでちゃんと応対した。しかも丁寧に。そのやりとりがサイコーだった。

「お兄さん、今晩、素敵なクラシック音楽のコンサートはいかがですか? 聴いてみませんか?」
「あ、いえ、すみません、今晩はシュターツオーパーです。」
「ああそうですか、残念、それでは明日はどうですか?」
「いえ、すみません、明日もシュターツオーパーです。あさってもシュターツオーパーです。」
「あーー・・そうですか。そいつはどうも失礼しました。」

隣で聞いていて、思わず笑ってしまった。ナイスな撃退。
そうなのだ。我々はシュターツオーパーで世界最高峰のオペラを観るためにウィーンにやって来たのだ。そこらのおのぼりさんたちと一緒にしないでくれたまえ。

この後も、引き続き市内観光を続行。ベートーヴェン記念像、市立公園とその中にあるJ・シュトラウス像、シューベルト像、王宮内カイザーアパートメント(皇帝の部屋)、国立図書館広間(プルンクザール)を巡った。

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今こうして振り返ってみると、旅行の初日、観光スポットを一気に駆け足で回ったという感じだ。信じられないが、とにかく写真が残っているのだから、間違いない。

とにかくお疲れさま、さてそろそろホテルに戻りましょう。夜のオペラに備えないと。

実は、本日のオペラは立ち見席で鑑賞することになっていた。
ちゃんとした席ではなく立ち見にしようと決めたのは、旅行代を少しでも節約しようという魂胆から。1万円から2万円以上するオペラ座のチケット代だが、立ち見席なら300円くらいと激安。(※当時の値段。今は値上げされたが、それでも500円くらい。)
それに、長旅の初日、時差もあり、椅子に座って鑑賞すると睡魔が襲ってくる可能性がある。立ち見ならその心配は無用というわけだ。

ただし、体力勝負になるし、チケットを買うために開演の数時間前から並ばなくてはならない。ここはホテルで休憩し、体調を整えるのが賢明だ。

ということで、ホテルに戻り、私はベッドに横になった。Nくんもとりあえず横になった。
ところが、初めての海外旅行初めてのウィーンで気持ちが高ぶっているNくんは何だか落ち着かない。まだ明るいのに、部屋で休むのはもったいないと感じたようだ。

「あのー、すみません、もうちょっと外を見てきてもいいですか?」
そう告げると、Nくんは再び外に飛び出して行った。

マ・ジ・か!?(笑)。
まあな。そうしたい気持ちはわかる。若いので、きっと体力も有り余っているのだろう。

体力にイマイチ自信がない私は、独りベッドの中で体を休ませることに専念しました。

1997年9月 ウィーンへの道2

Nくんにとって、初めての海外旅行だそうだ。
でも大丈夫。まったくノープロブレム。任せなさいって。
この時、私、既に海外旅行15回目。ウィーンも4回目。
もう、ね、私がツアコンになってぜーんぶ案内したげる(笑)。

それに、我々にとって最重要なのはオペラ公演だ。だから、ウィーン国立歌劇場の公演チケットをしっかり確保した時点で、準備は万端整い、この旅の成功は確約されたようなものなのだ。

ウィーンでの鑑賞スケジュールは以下のとおり。
9月12日 「ドン・カルロ」 M・ハラス指揮
9月13日 「トリスタンとイゾルデ」 Z・メータ指揮
9月14日 「サロメ」 S・ヤング指揮  ベーレンス出演! これがメインね
9月15日 「エフゲニー・オネーギン」 S・ヤング指揮
サロメのベーレンス以外にも各公演の出演者は一流の歌手がバッチリ揃っていたが、その紹介は個々の公演概要の際に記していく。

以上の4公演を鑑賞した後、私はパリを経由し、帰国の途につく。仕事の関係で、これ以上の休暇取得は難しかった。

一方、Nくんは、せっかくの海外旅行だからということで、その後私と別れ、独りでもう少し旅を続け、ミュンヘンやミラノに向かうという。素晴らしいじゃないか。


ウィーンに関して言えば、初めてのNくんのために、私自身既に行ったことがある観光ポイントに御案内して回る、というパターンがどうしても多くなるだろう。
別に何の問題もない。「ハイ喜んで!」って感じである。
でも、それだけではやっぱり物足りない。私がまだ行ったことがない場所も是非観光したい。

そういうことで、こちらの希望も盛り込ませてもらった。
それが「ヴァッハウ渓谷ドナウ川遊覧船観光」と「ブラチスラヴァ市観光」だ。

ブラチスラヴァは、ウィーンから日帰りで十分行ける近い都市。
とはいえ、スロバキアという外国への出入国である。
チェコから分離独立して約4年。当時、日本人は入国に際し、たとえ短期観光であってもビザ取得が必要であった。(※現在は短期観光なら免除)
私達は、日帰り観光ということで、普通の観光ビザよりも更に滞在許可承認が簡易化された「トランジット・ビザ」(通過用)を取得することにした。手数料もそっちの方が安い。
だがいずれにしても、大使館に出向いての申請手続きが必要であることに変わりはない。

このビザ取得というのは、非常に厄介で面倒だった。
大使館での受付は平日の午前のみ。日本国の祝日だけでなく、母国スロバキア国の祝日も休みで閉館する。(ったく、いい身分だよな)
郵送は受け付けず、申請、それから受取りのために、二回出向かなければならない。
しかも、一日の受付数に制限があるため、朝早く行って、並ばなければならない。万が一受付の制限を越えたら、いくら並んでいても「ハイお疲れ様、また出直してください」らしいのだ。

信じられる? まったく、なんという横柄さだよ!
旧東欧、元共産国の硬直的な官僚主義を引きずっているとしか思えないな。

この面倒くさい手続きを、Nくんが「私がやりましょう」と一手に引き受けてくれたのはありがたかった。私は仕事が忙しくて休むのが難しかった。本当にサンキュー。

最後に、旅行の準備、打ち合わせの一環で、私はNくんのご自宅に伺い、お母様に挨拶した。
Nくんにとって初めての海外旅行。唐突に決まったことだし、御両親としても心配があっただろう。「どういう人と一緒に行くの? 大丈夫なのその人?」みたいな気持ちも、もしかしたらあったかもしれない(笑)。
だから、御挨拶は重要。ちゃんとしておこうと思った。あの、決して怪しい人じゃありませんから(笑)。
これでなんとか信用してもらえたかな?


以上でプロローグはおしまい。いよいよ次回から現地の旅行記をスタートします。

 

1997年9月 ウィーンへの道1

この旅行で一緒にウィーンに行った相棒くんを紹介しよう。年は私の方がずっと上だが、長きに渡って深い親交で結ばれている友人、Nくんだ。
だが、その絆のきっかけは、「不思議なほどの偶然で得られた縁」と呼べるものである。
まさにこのウィーン旅行が、そうだった。

知り合ったのは、随分と昔のこと。正確な時期は忘れてしまったが、25年くらい前だっただろうか。
共通の友人がいて、その人から紹介され、3人で一緒に会った。
Nくんは当時、まだ大学生だった。しかし、年齢差の壁は「クラシック」という共通の趣味が容易く取り払ってくれる。
しかもそれだけじゃなかった。なんと住んでいる場所も私とNくんは同じ市内という偶然のオマケ付き。

さっそく「どんな音楽を聴いてるの?」と尋ねると、「ヴェルディドニゼッティベッリーニなどのイタリアオペラが好き」「往年のセラフィン、カラス、テバルティといったヒストリカルな録音も聴いている」「歌手では、デル・モナコが大好き、フレーニも大好き」ということだった。

「若いのに、オペラの造詣が深くて、すごいな」
彼についての第一印象だ。
私が彼の年齢の頃は、まだオペラの扉を開けるに至っていなかったのだから。

こうして私はNくんと知り合いになったが、そこですぐに親密な友人関係が始まったかというと、そうでもなかった。
実はその後、もう一回偶然の引き合わせというのがあって、そこで我々の距離が一気に縮まっていく。
で、その偶然の引き合わせをしてくれたのが、ヒルデガルド・ベーレンス様だった。

初めてNくんと会ってから2年くらいが経った1997年6月、ベーレンスが来日した。
サントリーホールで行われたアンナ・トモワ・シントウとのデュオ・リサイタルである。

ベーレンスを信奉していた私は、当然のごとく会場に駆け付けた。二人の一流歌手の競演を十分に堪能すると、終演後、私は上記の共通の友人くんと二人で軽く一杯に出掛けた。

素晴らしいコンサートと楽しいお酒ですっかりいい気分になり、帰路に向かった神谷町駅の構内ホーム。そこで我々はNくんとばったり出会った。偶然だった。

「あれ~!? Nくん、お久しぶり。今日のコンサート来ていたんだね!!」

この時我々はいい感じで酔っていて上機嫌だったが、Nくんは別のことで上機嫌だった。
サッと誇らしげに見せてくれたベーレンス様の麗しのサイン。
そうか、終演後、楽屋口で彼女の出待ちをしていたんだ。それでこんな遅い時間になったんだね。

それにしても、驚いた。
Nくんはイタリアオペラにハマっている人間だとばかり思い込んでいたので、ドイツオペラで活躍するベーレンスのコンサートに駆け付け、しかもサインまで手に入れていたというのは、ちょっと意外な感じだった。
ところが、彼の口から発せられたのは、思いがけず嬉しい言葉だった。

「ベーレンス、本当に素晴らしいと思っています。最高の歌手だと思います。」

更にびっくりしたこと。
Nくんは、敬愛するベーレンスに是非会いたいという一念で、「ここに泊まっているに違いない」という当たりを付けたホテルのロビーで出待ちをし、見事にベーレンス様とのプライベート・ツーショット写真をゲットしていたというのだ。

そうだったのか・・・。
それはすごい。そこまでベーレンスのことを!
これまでに何人ものクラシック好きの人と会ってきたが、これほどはっきり「ベーレンスが最高」と言ってきたのはNくんが初めてだ。

我が同士よ、Nくん!!(笑)

私は帰宅途中の電車の中で、彼に思い切って誘いの話を持ちかけてみた。
顔見知りだったとは言っても、それほどの友達付き合いをしていたわけではなく、この日たまたまコンサートからの帰りでばったり会っただけ。普通ならこんな話を持ち出すのは、相当に突拍子もないことだろう。
だが、言わずにはいられなかった。酔っぱらった勢いというのもきっとあった。

「あのね。実はさ。今年の9月、ウィーン国立歌劇場でベーレンスがサロメを歌うんだ。私はそれに行く予定で、着々と計画を立てている。で、もしよろしければなんだけど、どうだい、一緒にウィーンに行かないかい?」

唐突にこんなことを言われたら、普通は一瞬たじろいでもおかしくないだろう。
Nくんの返事は「うわー、いいなあ。行きたいです!!」だった。

もちろん「行きたいです」と「行きます」は、別物。
「行く」と即断即決できないのは当然のこと。海外旅行は簡単ではない。この時Nくんは社会人になってまだ間もない。お金だってかかるし、Nくん自身の仕事の都合もある。

私は言った。
「ここでの即答はいらないよ。無理なら無理で結構。でも、もし魅力を感じるのなら、日を改めてもっと詳細に説明するからね。」

程なくして、Nくんから「よろしくお願いします!」という返事があった。我々は「好きな歌手はベーレンス」というその一点で意気投合し、お互いの信頼関係を瞬時に構築させて、共通の夢を膨らませたのだ。

旅行の出発まで、3か月を切っている。二人での旅行の準備が慌ただしく堰を切ったように動き始めた。

2020/8/29 東京シティ・フィル

2020年8月29日   東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団   東京オペラシティコンサートホール
指揮  高関健
山根一仁(ヴァイオリン)
コープランド  市民のためファンファーレ
ショスタコーヴィチ  ヴァイオリン協奏曲第1番
R・シュトラウス  13の管楽器のためのセレナード、メタモルフォーゼン


4月に行われる予定だった定期演奏会の代替公演。
当初のプログラムはブラームスのピアノ協奏曲第1番とシュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」だったが、コロナの影響で大規模編成作品の演奏が困難となり、変更となった。

だが、それにしても、いい選曲だ。
私は、プログラムがこのように変更になったことで、逆にコンサート行きを決めた。

オーケストラは、大規模編成作品が演奏できなくてどこも苦慮しているが、たいてい古典作品に逃れようとする。
「とりあえず今年はベートーヴェンイヤーだし、ベートーヴェンやっとくか。その意義はあるしな。人気もあるしな」みたいな。

で、どこもみんな同じようなプログラムの公演が並ぶ。

あのねえ。安易なんだよ。
もっと考えろよ。考える手間、探す暇、惜しむなよ。そうすれば、こうしたシティ・フィルのようなプログラムが見つかるんだよ。

プログラムを組んだのはおそらく指揮者の高関さんだと思うが、センスの良さがとにかく光る。

例えば、シュトラウスの二作品の並べ方。
これは、単に演奏者間の密を避けるために、管楽作品と弦楽作品を分けたわけじゃない。
初期作品と晩年作品を対比させて、シュトラウスサウンドの構築手法の変遷にまで迫ろうとしているのだ。

つまり、「プログラムを組む」というのは、こういうことなんですよ。


ソロの山根くん。天才少年として彗星のごとく楽壇に登場してから、もう随分と経った。
技術がしっかりしていて、特に早いパッセージの巧さ、鮮やかさは、息を呑むくらい。最終楽章の一気呵成の勢いは本当に見事だ。

一方で、第1楽章のノクターンは物足りない。音色や表現にもう少し深みがほしい。
感情を込めるのか、それとも無表情を貫くのか。
静けさなのか、静けさを装った顔なのか。
要するに、このノクターンショスタコーヴィチはどのような想いを馳せたのか。
これらの追求と演奏への落とし込みが、中途半端だと感じる。

結局、演奏家の成長、あるいは実力というのは、技術じゃなくて、そういうところなのだと改めて思い知る。


後半のシュトラウスは、まるでそうしたアプローチの仕方を教えてくれるかのように、高関さんの探求と読解が鋭く磨かれた演奏だ。「あー、スコアを読み込んでいるなあ」と思わず頷いてしまう。奥深い。

メタモルフォーゼンは、この作品の演奏の理想郷とも言えるほど、圧巻の絵巻物の仕上がり。
単にポリフォニックの妙を浮かび上がらせるだけでなく、この作品が誕生した時代背景までを透察する。第二次世界大戦直後の虚無感と現在のコロナ禍の閉塞感がクロスオーバーし、胸苦しさを感じるほどだ。

残念ながら一つだけ個人的に好みじゃなかった部分があって、メタモルフォーゼン終結部で現れるコントラバスエロイカ第2楽章の葬送のテーマ。これを思い切り強調させていた。
なんだか「はい、皆さんいいですか、ベートーヴェンの作品のテーマが出てきますよ。ほら、これですよー、わかりますかー」と先生から教わっているみたい。ていうか、その意図は間違いなくあったはずだ。

いいよ、別にそんなことしなくても。押し付けがましい。
聞こえた、分かったという人がいてもいいし、聞こえなくても、分からなくても、何の問題もない。

音楽は感じる物。捉え方は聴き手の自由に委ねられるべきなのだ。

次の旅行記のプロローグ 好きな歌手の追っかけから始まった

オペラを長年聴いていれば、好きな歌手、尊敬する歌手というのが出てくるのは当然。
私の場合、若かりし頃、心から敬愛していたのが、今は亡きドイツのソプラノ、ヒルデガルド・ベーレンスだった。

オペラを聴くようになり、オペラの鑑賞作品レパートリーを増やしていくようになり、ついにワーグナーの大作「ニーベルングの指環」に手を染めたちょうどその頃、メト、ウィーン、ミュンヘンなど世界の一流歌劇場でブリュンヒルデを歌っていたのが、ベーレンスだった。
つまり、1980年代から90年代にかけて、ベーレンスはドラマチック・ソプラノの頂点に君臨していた。
R・シュトラウスのオペラが好きになり、ワーグナーのオペラも好きになった自分が、彼女にハマり、傾倒し、やがて女神のごとく崇めるようになったのは、自然の成り行きだったと思う。

オペラを観るために海外に出かけるようになると、今度は彼女が出演するオペラの公演をどうしても観たくなる。これもまた、自然の成り行き。
1991年10月にミュンヘンで「エレクトラ」を、1996年にウィーンで「ワルキューレ」と「神々の黄昏」のブリュンヒルデを現地で観た私は、それで満足どころか、ますます彼女が出演するオペラを観たいと思い、次の機会を虎視眈々と狙った。
次は何だ? 何を聴きたい? 何を聴くべき?
ゾルデか? それともサロメか?

ベーレンスの出世作と言えば、サロメだ。
カラヤンに見いだされて出演したザルツブルク音楽祭サロメは伝説である。この時、世界は「理想のサロメが出現した!」と驚嘆し、センセーショナルに沸いた。

そうだ、サロメだ。ベーレンスのサロメを聴きたい。どこかでその機会はないか?

願い、思いというのは、通じるものだ。
ブリュンヒルデを聴いた翌年の1997年ウィーン国立歌劇場の9月公演ラインナップ。その中に、ベーレンスが出演するサロメがあった。

これは・・・行くしかない!!
実を言うと、この頃、私は非常に忙しい部署に配属されていて、それこそ休む暇などないくらいだった。
だが、そんなことは知ったことか。このチャンスは絶対に逃すべきではない。行こう。行かなくては。仕事なんか上司と同僚に押し付けてしまえ。

この時の自分は、あたかも熱に浮かされているかのようだった。