2020年9月8日 読売日本交響楽団 サントリーホール
指揮 尾高忠明
小曽根真(ピアノ)
G・ウィリアムズ 海のスケッチ
モーツァルト ピアノ協奏曲第23番
ペルト フェスティーナ・レンテ
オネゲル 交響曲第2番
2月のムターのリサイタル以来、半年以上ぶりのサントリーホール。
コロナの影響で楽しみにしていた公演が中止になったり、プログラムが変更になったりして、がっかりすることがある一方で、プログラム変更のおかげで逆に魅力的な公演に様変わりし、思わぬ拾い物となることがある。
先日の東京シティ・フィルの公演がそうだった。今回もそう。
本公演の元々のメインプロはウォルトンの交響曲だったが、日頃から機会あれば聴きたいと思っているオネゲルの交響曲に替わったというのは、わたし的には嬉しい。
それだけではなく、プログラムの再編にあたり、元々にあった弦楽合奏曲「海のスケッチ」を繋ぎ発展させていく形で、同じく弦楽合奏をベースとするペルト作品とオネゲル作品を並べるという采配の仕方が、本当に粋。指揮者尾高さんの見識とセンスがとにかく光る。
大規模編成作品の演奏が困難となる中、密を避けるためのアイデアとして、弦楽合奏曲は一つの選択肢と言えるが、実は、脚光浴びるべき珠玉の名曲がたくさんある。
多くの人に知られているのは、例えばチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」やシェーンベルクの「浄夜」などだろう。
もっとライトに広げれば、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」やヴィヴァルディの「四季」なども挙げられよう。
私だったら、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」、レスピーギの「リュートのための古代舞曲アリア第三組曲」、ブリテンの「シンプル・シンフォニー」、ベルクの「叙情組曲」などはカウントしたいし、何と言ってもR・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」は、すべての管弦楽曲の中で第1位をあげてもいいくらい好きな作品だ。
また、純粋な弦楽合奏作品ではないが、マーラーやブルックナーの交響曲のアダージョ楽章が眩いくらいの神々しさを放つ時、弦楽器のしっとりとした泡立ちと香りが心を揺り動かす渦の源となっているのは、誰もが理解するところだろう。
そういうわけだから、コロナ禍の中のやむを得ない措置ではなく、楽団員の出番の問題は別にして、もっと弦楽合奏曲を積極的に採り上げてほしいと、心からそう思うわけである。
さて、ウィリアムズの作品は今回初めて聴いたが、素敵な曲だった。「海のスケッチ」というタイトルが付けられているとおり、確かに海の景色が目に浮かぶようだった。
ただ、面白いのは、その情景はどこか寂寥感が漂う雰囲気で、しかも我々が思い浮かべる日本海の荒々しいイメージともまた異なる。どちらかと言えば、ブリテンの「ピーター・グライムズ」の寂れた世界がしっくり来る。
そこらへんはやっぱり北海や大西洋を眺めているイギリス人作曲家(※正確にはウェールズ人)の独特の感覚なのだろう。
モーツァルトのコンチェルトは、一転して小曽根さんらしい弾けた演奏。
クラシックの枠にきちんと当てはめようとしながらも、その枠の範囲内でどこまで「遊び」を散りばめられるか、それに勝負をかけているみたいな意気込みが、なんとも愉快。
そんな小曽根さんを見ていて、ふと思った。
モーツァルトって、小曽根さんみたいな人だったんじゃないか、と。
才能はあるけど、どこか異端児で、やんちゃで、枠に収まらなくて、溢れてしまった才能でつい遊びに走っちゃう、みたいな。
コンチェルトも良かったけど、アンコールのジャズは最高だった。これぞ本業の真骨頂なり。
メインのオネゲルは、指揮者尾高さんが広げる裾野と、そこに飛び込んでいこうとオケを引っ張るリーダー日下さんの突き進み具合が絶品ナイスだった。この二人のおかげで、粒立った音が光彩を放ち、圧倒的な熱量を生み出していた。
一つだけ残念だったのは、個々の奏者の間隔を開けていることで、時々音が塊になりきれず、霧散してしまう。
なるほど、物理的な問題というのは、結構正直に音に跳ね返ってしまうのだなと痛感。