クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

エピローグ 会社に出社 そしてその後

「とにかく、水曜日、出社してからだな。」

日曜日にウィーンから国際電話をかけ、2日の追加の休暇を願い出た時、受話器の向こうで上司はこう言った。

やはり、私のせいで夏季休暇明けに社員が全員揃わず、皆で心機一転のスタートを切ることが出来なかったというのは、所属部署の上層連中の気分を害したようだ。

朝一番で、私は所属長に呼び出され、こう告げられた。

「仕事を甘く見るな。お前の休暇願は認めない。2日間の穴埋めをしてもらう。次の土日、出勤しろ。いいな。」

私は悲しかった。
休みを認めてもらえなかったから、ではない。
そうか、会社はこういう仕打ちをするんだ、こういう仕打ちをする会社に自分は勤めているんだ、ということに改めて気付き、悲しかった。

別に無断欠勤したわけではない。就業規則違反をしたわけでも、業務上の損失を出してしまったわけでもない。
休暇が明ける前日の夜に電話を入れ、2日間の追加の休みを願い出た、いったいそれの何がいけないのか?(これ、今だったら、パワハラに抵触するよな)

もし私が立場替わって上司だったら、「旅行はどうだった? 楽しかったか?」と話を聞いてあげた上で、「せっかくリフレッシュしたんだから頑張れよ。挽回しろよ。期待してるぞ。」と肩を叩き、奮起を促すだろう。
百歩譲って休日出勤を命じたとしたら、私だったら自分も一緒に休日に出てくるだろう。「組織なんだぞ、仲間なんだぞ」「俺はオマエと共にいるんだぞ」ということを理解させるために。

なぜ、コイツら、それが出来ない?
アホどもめ。

私は直属上司と所属長の二人に幻滅した。
同時に、こうした風土がべっとりと染み付いているこの会社に幻滅した。

7か月後、私はこの会社を退職した。
色々な理由、様々な事情があり、自分の将来設計に思うところが多々あって、熟慮に熟慮の上、決断した。

だが、正直に言う。
この夏休みの一件も決断を後押しした要因の一つだったことを、私は決して否定しない。

ちなみに、私がこの会社に入ってから辞めるまでの2年間トータルで、取得した(認められた)有給休暇の日数、いったい何日だと思う?

たったの0.5日である。

今振り返って、この会社にとっとと見切りを付け、転職したことは、自分の人生において大成功だったと、200%断言できる。
(辞める時は、周囲から「早まるな」とか「そこを乗り切らないとダメだ」とか、散々言われたけどな。へっ、他人事だと思ってテキトーなこと言ってんじゃねーよ。)

私が入社した当時、この会社は世界的なコーポレート・ブランドとして名の知れた一部上場企業だった。
しかしその後、業績は転げ落ちた。今は外資系からの資本投入でなんとか生き延びている有様である。おそらく、当時の同期、同僚を含む多くの従業員が、勧奨やリストラによってカットされていったに違いない。

一方で、早々に転職を果たした私は、新たな勤務先で頑張れる仕事を見つけ、並行で趣味に興じ、勤労者の権利である有給休暇を正々堂々と取得しながら、バケーションを、そして人生を楽しんでいる。そういうリフレッシュが、仕事の能率向上に必ずや結びついていると確信している。
(趣味に偏りすぎじゃねえのか、というツッコミは、お願いだから勘弁してちょーだいね♡)

プロローグで、私は今回の旅行ことを、次のように記した。

「私の海外旅行の原点であり、間違いなくこの後の自分の人生にインパクトを与えた分岐点。」

それは、つまり、そういうことだったのだ。

 

おわり

1988/8/21 ウィーン2

音楽の都ウィーン。憧れの街ウィーン。モーツァルトシューベルトベートーヴェンマーラー・・偉大なる芸術家たちがここを拠点に据え、活躍したウィーン。
昔、彼らは確かにここを闊歩していた。そんな歴史ある石畳の路を歩けば、由緒ある伝統の息遣いが、私の傷心をみるみるうちに癒やしてくれる。ウィーンはどこまでも私の味方なのだ。

f:id:sanji0513:20200624191027j:plain

f:id:sanji0513:20200624191052j:plain

f:id:sanji0513:20200624191114j:plain

どうしても行ってみたい場所があった。何としても覗いてみたい施設があった。

楽友協会ホール、ムジークフェライン。

そのとおり。国立歌劇場と並び、ウィーンをウィーンたらしめる崇高な音楽の殿堂だ。世界の楽壇の頂点の場所でもある。

この時期はオフシーズンで、公演は何もやっていない。ウィーン・フィルザルツブルクに出張中だ。
だからこそ、見学出来るチャンスがあるはず。私はそう思った。

事務室を訪ねた。出てきた係の人に尋ねた。
「我々は旅行者です。そして、クラシック音楽のファンです。お願いがあります。ホールの中を見せてもらえませんでしょうか?」

「ついていらっしゃい」
手招きして我々を連れて行ってくれたのは、数々の名演が繰り広げられている黄金ホールの間。
公演がないので、シャンデリアはひっそりと降ろされ、座席にはカバーシートが被され、まさに休館中の装いであった。しかし、そこにあったのは紛れもなく、世界中のクラシックファン憧れの名ホールだった。

「じゃ、あとはご自由にどうぞ」
そう言って係の人が自オフィスに戻って行ったその瞬間から、この聖なる空間は我ら二人の物となった。完全貸し切り、独占状態である。

舞い上がり、カメラを片手に、あっち行きこっち行き回る二人。

そして、ついにステージに駆け上がる。
ちょうど指揮台が置かれるあたりに二本の足を踏み入れる。

ここだ。この場所だ・・。

フルトヴェングラーベームカラヤン・・・伝説の巨匠たちが指揮棒を持って構えたであろうその場所。そこに、私はいま立っている。
全身に震えがきた。ヤ、ヤバい。ヤバすぎる!!

ということで、完全にカラヤンになった気分になり、後ろに居並ぶウィーン・フィル奏者たちを従えている(つもりの)オレ様の勇姿を見るがよい!!!
超ご満悦!!(笑)

f:id:sanji0513:20200624191144j:plain

すっかり立ち直り、機嫌がよくなった私。会社のことなんか、クソ上司のことなんか、もう忘れた。
ここに来て良かった。ウィーンに来て良かった。ムジークフェラインのステージに立ったことで(本来の意味とはちょっと違うけどな)、今回の旅行は見事に完結した。

夜。
最後の晩餐。老舗ホテルのレストランを予約。音楽祭の時と同じように身支度を整え、レストランに参上。優雅な料理をいただいて、フィナーレを締めくくった。

1988/8/21 ウィーン1

旅行もいよいよラスト。ついに、この日が来てしまった・・・。

せっかくの楽しい旅行なのに、密かに憂鬱なことがあった。ずっと心の奥底に気がかりを抱えたまま旅を続けていて、なるべく思い出さないようにしていたが、直面しなければならない日が、ついに訪れてしまった。

プロローグにも書いたとおり、今回の旅行は、会社で定められた夏季休暇期間を超過するため、追加であと2日の有給休暇申請が必要だった。確信犯で、私は会社に事前申請しなかった。なので、本日、これから職場の上司の自宅に国際電話をかけ、休みを願い出る。

はあぁぁ・・・。
分かっていたこととはいえ、覚悟をもって決めたこととはいえ、やっぱり気が重いや・・・。

まずは、最終滞在地であるウィーンを目指し、バード・イシュルを発った。
順調に走行し、もう少しでウィーンに入る頃かな、そろそろ市街地付近かな、そんな感じで車を走らせていた時だった。ふと進行方向右側に、公園らしき広大な敷地と歴史を感じさせる立派な建物が見えた。

「あれ? これもしかして、シェーンブルン宮殿じゃないの??」

ウィーンを代表する観光スポットの一つ、シェーンブルン宮殿。時間があれば行ってみたいとは思っていたが、まさか途中の通りがかりで見つけるとは・・・。偶然ではあったが、通りがかった以上は、寄っていくしかなかろう。

さっそく入場し、庭園を散歩。

奥の小高い丘にあるグロリエッテという建物にまで行き着き、そこの展望カフェでお茶をしながら、広大な敷地を見渡す。
整然と手入れされた花壇、鮮やかな黄色が眩しい宮殿の建物・・。壮観な光景だ。
ウィーンに来たんだなという大きな感慨が身を包んだ。

f:id:sanji0513:20200622191130j:plain

(この時我々は、宮殿内見学をパスした。この後にウィーン旧市街の散策も控えているため、見学時間を端折ってしまったのである。ちなみに宮殿の見学は有料だが、庭園だけなら無料。)

シェーンブルン宮殿を後にし、ウィーン市中心部に入ってきた。
さすがはオーストリアの首都であり、人気観光都市。リンク通り内の旧市街は、車も人も混雑。狭い路地も多く、一方通行も多く、ホテルにたどり着くまでが一苦労。やたらとぐるぐる回りながら、なんとか到着、ようやくチェックイン。

そして、とうとう気が重かった「やるべきこと」をやる時がやってきた。

嘘の言い訳としては、とにかく飛行機のせいにする。ポーランド航空に罪をなすりつける。
帰国便がトラブルでキャンセルになってしまい、足止めを余儀なくされた。どうしようもないんです。ご迷惑かけます。本当にすみません・・・。

果たして上司はなんて言うだろうか・・。もしかして、「仕方がないな。了解したよ。無事に帰っておいで。」と優しく声をかけてくれる、なんてことはないだろうか。

ホテルの室内から電話をかけた。初めての国際電話。時差は7時間。日本ではちょうど日曜日の夜9時くらいのはずだ。
電話が繋がり、上司に事情を話した。電話口の向こうで、しばしの沈黙が流れる。やがて溜め息。不機嫌そうな声でこう言われた。

「とにかく、水曜日、出社してからだな。」

言葉にこそ発しなかったが、「何やってんだ?オマエ」みたいな不快感が電話口から伝わってきた。

この上司の冷淡な反応で、ここまでの楽しかった旅行気分は、一瞬にしてガラガラと崩壊した。
受話器を置くと、私は横にいたOくんに「ゴメン、少し時間をちょうだい。オレ、しばらく落ち込む。すぐに気を取り直すから、そしたらまた観光しよう。」と告げ、そのままベッドにバタンと倒れ込んだ。

くそったれめ。でも、こうなることは分かっていたさ。優しい言葉なんか、かけてくれるわけがない。
それを承知で旅行を決めたんだろ? 覚悟してたんだろ?
だったら切り替えろ。楽しい旅行を最後まで全うしろ。

ベッドにうずくまりながら、そうやって必死に自分に言い聞かせていた時間は、どれくらいだっただろう。10分くらいだろうか・・。
そうだ、いつまでも落ち込んでなんかいられない。とにかく自らを奮い立たせ、「よし、さあ、観光に出かけよう!」
私はムクッと起き上がった。


いったんここまでにして、続く。

1988/8/20 バード・イシュル

バード・イシュルに到着したが、天気は依然としてどんよりのまま。これだと湖巡りのドライブはお生憎様だ。
でも私は、せっかくここに来たのだから、もう少し湖水地方を味わいたい。天気悪くてもいいから出かけたい。
ホテルにチェックインし、Oくんに「どうする?」と聞くと、「おれはいいや。ホテルで休むよ。」というので、私一人で再び車を走らせることにした。

目指すはザルツカンマーグート奥座敷、秘境とも呼ばれるゴーザウ湖。
晴れていたら美しい湖のはずだが、霞んでいてイマイチ。でもまあ仕方がないな。神秘的っていやあ神秘的だし、それで良しとしよう。

f:id:sanji0513:20200620084059j:plain

ホテルに戻った。いつしか雨が本降りとなっていた。
夕食のレストランを探しに外に出ると、中華料理店が見つかった。
へぇー、こんなオーストリアの田舎町にも中華料理店ってあるんだな。

私はちょっと気になった。この中華料理店を営んでいるのは中国人なのか、それとも現地人なのか?

確かめたくて、夕食はこのお店に決めた。店員として出てきたのは、案の定、中国系の人だった。
うーむ、中国人、どこにでもいるんだな。すげーな。

いずれにしても、ここまでずっとヨーロピアンのメシばかりだったので、慣れ親しんでいるアジアの味は嬉しかった。ただ、ライスだけは日本のツヤツヤもちもちの炊きたてご飯と違い、パサパサで「不味い」と思った。

ちなみにだが、私は、海外旅行に出かけるようになってしばらくの間は、日本料理や中華料理などのレストランを極力避けるようにしていた。
せっかくヨーロッパに来ているのに、なんでアジアの料理を食べる必要があるのか?
現地の物をいただき、味わうのが、海外旅行の醍醐味なわけでしょう?
と、つまりそういうわけだ。

ところが、ある時を境にして、私は何の躊躇もなく日本料理や中華料理のレストランに足を運ぶようになった。
実は、「とあるきっかけ」があったのだが、まあ要するに簡単に言ってしまうと、現地の物ばかり食べ続けていると、飽きてしまい、中には口に合わない物もあって、やがて胃が不機嫌になるのであった。
そうした時、かつては我慢していたが、この「きっかけ」によって「我慢する必要など無い」ということに気が付いた。

旅行の食事って、大事だよね。侮れない。
(この「とあるきっかけ」のエピソードが入っている旅行記も、いつか是非、「過去の旅行記シリーズ」で採り上げ、書いてみたいなと思っている。)


中華料理をいただいた後、我々は今度はプールバーを見つけたので、入店。ビリヤードに興じた。旅もいよいよ終盤、こうして無邪気に玉を突いている間にも、残された楽しい時間は刻一刻と減っていく・・・。

レンタカー旅行のエピソード

8月20日午前11時のウィーン・フィルコンサートを聴き終えた我々は、名残を惜しみつつ、モーツァルト生誕の古都を離れた。
この日、本当は午前から、近郊のザルツカンマーグートに点在する美しい湖を車で巡るはずだった。しかしコンサートを入れてしまったため、予定が狂った。
もっとも、天気は曇りで下り坂気味だったし、ドライブ日和とは言い難い。ここは寄り道せずにまっすぐ宿泊滞在地、湖水地方の拠点でもあるバード・イシュルを目指すことにした。

運転はOくんに任せた。私はというと、ウィーン・フィル鑑賞を終えて少し気が緩んだからだろうか、あるいは旅の疲れが出てきたからだろうか、助手席で居眠りを決め込んだ。

自分としては、何の悪気もないつもりだった。運転を交代で行うのは、そうやってお互い適宜疲れを取るのが目的だろうし、安心して居眠りするというのは、何よりも運転手を信頼している証である。

ところが、Oくんの思いは若干違ったらしい。
助手席に座る以上はナビゲートが務めであろう。自分はそうやってきた。慣れない海外で運転するのは大変なのだから、運転手だけでなく助手席の方も気合を入れて、「次の目的地に無事に移動する」という意識を共有すべきだろう。

だというのに、居眠りとはいい気なもんだぜ、ったくよ。

・・・と、後々、ずいぶんと経ってから、二人で酒を飲みつつ懐かしい旅行を振り返った際、チクッと言われました(笑)。
チクッ・・イテテテ

実は話は最終日に飛ぶ。ウィーンのホテルを出発し、帰国するためウィーン国際空港に向かう時も、私は運転をOくんに任せると、やっぱり隣で居眠りを決め込んでしまった。

「じゃ、到着したら起こしてねー! よろしくー!」

Oくんはちゃんと空港にたどり着けるか、緊張と不安があったのだという。間違った方向へ行ったでは済まされない。事故なんか絶対に起こせない。日本への帰国がかかっているのだ。当然だわな。

それなのに、隣のヤツときたら、また居眠りかよ!

空港に到着し、ムクッと起き上がって放った私の何気ない一言。
「おっ、ご苦労!」
これに、Oくんは心の中で「テッメー!」と思ったんだとさ(笑)。

あららぁ!?
いやいやいや。何をおっしゃいますか、あーた、信頼の証ですがなー(笑)。

後々チクリと言われたこと、まだあった。
旅の後半からは連日移動となり、手洗いした洗濯物を干して乾燥させることが難しくなった。
そこで私は、まだ乾ききってない自分のパンツや靴下などを、車の後部座席とリアガラスの間にあるトレイスペースにバーンと広げ、移動中に乾かす作戦に打って出た。

ガラスを通しての日光に当てれば乾きも早い・・・これ、我ながらひじょーにナイスアイデアだと思った・・のだが・・・。
「あのさあ、常識ってもんがあるだろうよ!? 親しき仲にも礼儀ありだろうよ!?」
同じく何年も経ってから、叱られてしまいました。

なんで~!? ダメっすか?? 親しき仲には無礼講って・・あ、そんな言葉はないか。
いいアイデアだったんだけどなー。実際、乾いたし(笑)。

旅行で長い時間を共に過ごすと、時々ふと人間の本性がバレる、ということですかな。


車でのエピソード、もう一つ、最後。

ルツェルンを発ってブレゲンツに向かうまでの途中のハイウェイのこと。運転していた私は、二つに別れる岐路で、方向を間違ってハンドルを切ってしまった。「あっ、違う!」と気が付き、慌てて路肩に停車したが、その時既に、別方向への一方通行路に少しだけ侵入してしまった。(ほんの少しだけだよ・・)

元の幹線道路に戻りたい・・・。
ここならまだハンドルを切り返せるよな。ちょっとバックするだけで、決して逆走にならんよな。ぎりセーフだよな。交通量も多くないし、えい、こっそり戻っちゃえ。

ということで、発進しようとしたちょうどその時・・。

パトカーが通りがかってしまいました。
オーマイガッ。なんというバッドタイミング・・。
車を停め、警察官様がこっちに向かって歩いてきます。あっちゃー・・・。

「どうしました? ここは駐停車禁止エリアですよ。」
私は焦り、慌ててしまい、稚拙な英語をまくし立て、必死に弁解した。

警察官は、提示した私の国際免許証をしばらく眺めていたが、やがてヒョイと返却すると、そのまま立ち去っていった。

咎めなし。
お許しいただいたのである。見逃してくれたのである。
いやーーー、どうもすみませんー。

この時、私がまくし立てた英語、焦っていたせいで、なんだか低レベルな英単語を並べたことは覚えているのだが、実際に何て言ったのかは、すっかり忘れてしまった。ま、別に思い出したくもないし、いいや。

今回、この初ヨーロッパ旅行記をブログでご披露するにあたり、事前にOくんに「書くよ」と予告してから、彼はこれらの一連のエピソードについてツッコミを入れたくて、ずっと手ぐすね引いて待っていたようだ。

ハイハイ、Oくん、お待たせー。それじゃ、心ゆくまでどうぞ!

1988/8/20 ザルツブルク音楽祭2(ウィーン・フィル)

1988年8月20日  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ザルツブルク音楽祭)  祝祭大劇場
オネゲル  オラトリオ 火刑台上のジャンヌ・ダルク
指揮  小澤征爾
合唱  ウィーン楽友協会合唱団、ザンクト・フロリアン児童合唱団
マルト・ケラージャンヌ・ダルク)、パウル・エミール・ダイバー(修道士ドミニク)、マリア・ファウスタ・ガッラミーニ(マルグリット)、ジェーン・ベルビエ(カトリーヌ)、クリスティーン・バルボー(聖処女)   他


コンチェルタンテとしての総合的な感銘度で言えば、圧倒され、胸にグッと来るものがあった。なんだかとてつもない音楽劇が上演されているんだな、という実感はひしひしと湧いた。きっとすごいコンサートだったんだと思う。

だが、いかんせん、音楽も知らず、ストーリーも知らず、目の前で展開されていることが何にも分からないという状況は、厳しかった。

仮にリブレットの内容を知っていなくても、最低限、ジャンヌ・ダルクの生涯に関する知識さえ持っていれば、「ああ、これは彼女が異端裁判にかけられ、処刑されるまでの場面を描いているんだな」とすぐにピンとくるだろう。
ところが、情けないことに、この時私はジャンヌ・ダルクについて何にも知らなかった。名前しか知らなかった。
もしかしたら学校で習ったのかもしれないが、きっと私は世界史の授業中、居眠りをしていたに違いない。

せめて、この作品の核である、ジャンヌ・ダルクと修道士ドミニクの会話が、オペラのように歌だったら・・。印象はもう少し違ったと思う。きっと音楽に集中することが出来ただろうから。
だが、いかんせんすべてセリフのため、どうにもこうにもお手上げだった。「いったい今、何をやっているの?」って感じだった。

繰り返すが、全体としては「これはきっとすごい公演だ」と感じられたのだ。
それだけに、作品を知らなかったというのは痛恨だった。

まあ、ぶっちゃけ言うと、「いやいや、オネゲルじゃなくて、もっとあるでしょうよ、例えばベートーヴェンとかブラームスとかマーラーとかさ。そういうのが聴きたかったよな、ホントはな。」みたいな感情は燻るわけである。
でも所詮、飛び込みのコンサート鑑賞なんて、こんなものなのだろう。

公演終了後、会場の外に出ようとしたところで、私は一人の紳士に声を掛けられた。ドイツ語だった。でも言っていることはシンプルだったので、容易に推察できた。

「日本の方ですかね? セイジ・オザワ、素晴らしいですね。」
「ええ、そうですね。彼は日本の誇りですよ。」(返事は英語)
日本人の自尊心をくすぐるお声掛けは嬉しかったが、もしこれが何のもどかしさもなく、巨大な感動に包まれていたら、その誇りはもっともっと満ち溢れたことだろう。


ちなみに、こうしてウィーン・フィルを振って成功を収め、自信を深めた小澤征爾は、翌年パリで、今度はオケをフランス国立管弦楽団に替え、この曲の録音を行った。CDをお持ちの方もいらっしゃるのでは? 私も当然持ってる。

更に、1993年、小澤はサイトウ・キネン・フェスティバルin松本において、演出付きの上演を行った。この頃になると私は作品をすっかり掌握していて(音楽もリブレットも)、松本に馳せ参じ、ここでようやくザルツブルクのリベンジを果たすことが出来たのであった。

1988/8/19 ザルツブルク音楽祭1(オーストリア放送交響楽団)

1988年8月19日   オーストリア放送交響楽団ザルツブルク音楽祭)  祝祭小劇場
指揮  ウィトルド・ルトスワフスキ
アンネ・ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)、クリスティアン・ツィメルマン(ピアノ)
ルトスワフスキ  葬送音楽、チェインⅡ、チェインⅢ、ピアノ協奏曲


さあ、コンサート会場への出発に向け、気分は盛り上がってきましたよ!
サンジくんとOくん、ついにザルツブルク音楽祭、本格デビュー。じゃーん!
このために、きちんとネクタイ、ワイシャツ、スラックス、革靴、日本から持ってきたでござる。

会場へ歩いて行くなんて、そりゃカッコ悪いよな。やっぱセレブならタクシーで乗り付けなきゃ、だよな。

ということで、ホテルの受付の人に頼みました。
「あ、すまないけど、タクシー呼んでくれる?」(我々、これからザルツブルク音楽祭ざーます。)

タクシーがホテルに到着。運転手に告げました。
「あ、すまないけど、祝祭劇場、行ってくれる?」(我々、これからザルツブルク音楽祭ざーます。)

祝祭劇場付近に到着。運転手に代金を支払いました。
「どうもね。あ、お釣りはいいからさ。」(我々、これからザル・・しつこいか)

完全に浮かれている若者ニッポン人。
しかーし、会場で目にした光景は・・・。

ジャケットに蝶ネクタイという正装の紳士、イブニングドレスの淑女。エレガントに社交を楽しむハイソサエティな連中ども・・・。
やつらこそ本物のセレブ。その決定的な身分差に、のぼせ気分は打ち砕かれた。ガクッ。

うんにゃ、格好なんて関係ねえ。ここは音楽を聴く場だろ。耳で勝負だ。クラシックファンの日本代表を舐めんなよ。大事なのは音楽なんだよ、音楽!

ステージに、麗しのアンネ・ゾフィー・ムター様、御登場。
「うっわーーーー。すっげー美人・・・」
ぼーっと見惚れてしまった。(我々の座席は、一階の最前列だった。)

で? 肝心の音楽はどうだったんだよ?? 大事なのは音楽なんだろ?

「あ、いや、その・・・あんまり覚えてません(笑)。」     スマン。